ふと、一人の男の動きが目に留まった。
――あの男、仕事する気ね

今し方、地方から着いた汽車のおかげで、にわかに活気付く停車場のプラットホーム。
その雑踏の中、さり気なく人混みを擦り抜けながら目線だけで周囲を窺っている男がいる。
目的はスリか置き引きか。いずれにしても獲物を探している眼だ。
その眼の動きがぴたりと止まった。
胡美は男の視線の先を読んでみた。
――ははぁ、狙いはアイツか
ホームの真ん中あたりに袴姿の青年が立っている。
頭一つ抜き出た長身と日焼けした肌だけとれば、偉丈夫と言えなくもないが、行李鞄を足下に置いて地図か書き付けらしき紙切れを手にきょろきょろする姿はどう見ても、たった今東京に着いたばかりの田舎者といった風情丸出し。
スリ掻っ払いの類にしてみれば、間違いなく格好のカモだ。

ここから大声を出しても、この喧噪では青年まで届くか疑問だが、あの掻っ払いを牽制するくらいは出来る。
気付かれてると知ればこの場は諦めて河岸を変えるだろう。
そう判断した胡美が息を吸い込んだのとほとんど同時。

ピィィーーーーーッッ！！！

陸蒸気の甲高い汽笛が、総ての雑音を掻き消して鳴り響いた。
まるでそれを合図のように、男が動いた。
一直線に青年めがけて走り背後から足下の行李を引っ掴む。その勢いのまま脱兎の如く駆け抜けようとした次の瞬間、男は空手でもんどり打って地面に転がっていた。
掴んだと思った獲物は青年の足下。彼の片手が軽く押さえ付けているだけで、微動だにしてない。
「これ僕のやけん。間違ぅたらいけんよ、おっちゃん。」
目をぱちくりさせた男に向かって、青年はにっこり笑って暢気なセリフを吐いた。
「舐めてやがんのかっ、このクソガキ！」
起き上がって怒声で返した男が掴みかからんばかりの形相で睨み付けるが、果たして剛胆なのか単に鈍いのか、きょとんとした顔はしても恐れる様子はない。

「お巡りさ〜〜ん！こっちこっち、こっちですよ！！」
突然、若い娘の声が割って入った。
周囲の注目も引き始め、次第に人垣が出来つつある。
ちっ、と舌打ちした男はそそくさと人混みに紛れ姿をくらました。
「あなた大胆ねぇ、あんな火に油を注ぐような事言って。」
青年が振り向くと、胡美が楽しそうに笑っている。
「僕、何ぞ気に障る事言うたっちゃろか？」
青年は先程と変わりない口調で小首を傾げた。
――もしかしてコイツ本物の天然･･･？
半ば呆れてその顔を見上げた胡美は、見るからに大らかそうな笑顔を向けられて、今度は溜息混じりに笑うしかなかった。
そこへ、ばらけ始めた人垣を掻き分けて制服姿の警官が現れた。
「こらぁ！騒ぎを起こしたのは貴様達か！」
「あら、本物の警官が来ちゃった。」
肩を竦めた胡美を見て、警官は厳つい顔をあからさまに顰めた。
「ん？何だお前か、水島。また何か要らん事に首突っ込んどるのか？」
大方の警官に快く思われてないのは分かっている胡美だが、“また何か”などと言われて黙ってるのは性分じゃない。
「違いますよ、犯罪を未然に防いであげたんですからね。もっとも泥棒はとっくに逃げちゃったけど。」
ぽんぽんと言い返されてたじたじの警官は更に顔を顰めた。
帝都の治安を預かる警察官たるもの、市民から畏れられるくらいの威厳が第一と信じているタイプだ。それが衆人環視の中で小娘ごときの勢いに押し切られては面目丸潰れと思うのも無理はない。
「あぁ分かった分かった。だがな、女だてらもいい加減にしとけよ。いくら警部殿が大目に見てるからってな――こら、聞いとるのかっ。」
「はいはい分かってますよ。ほら、行きましょ、キミ。」
だが結局、勿体付けた説教は軽くかわされる羽目に。
青年の袖を引いた胡美は「では失礼、巡査殿」と片目を瞑って、人の波に紛れ込んだ。

「さて･･･で、何処に行くの？」
停車場を出てすぐ前にある広場まで来て、胡美は青年に向き直った。
「え？」
「何か目的があって上京してきたんじゃないの？ついでだから、案内してあげるわよ。」
手にした紙切れを些か強引に覗き込むと、骨董街の住所と店の名前。
「でも、よかとですか？え･･と、水島さん。」
「胡美よ、水島胡美。」
少しくすぐったそうに名告った胡美は、内心思わずにはいられなかった――もう少し人を疑った方が良いんじゃないの？キミ･･･
だが胡美の心配を余所に、青年は屈託のない瞳を細めて嬉しそうに笑う。
「僕は韮崎洋平いいます。」
――こればっかりはそう簡単にどうこうなるもんじゃなさそうね
人の良さそうな笑顔に見知った似たような誰かを思い出す。ほっとけない気になるのはその所為だろうか。
「ＯＫ。じゃあ行きましょう、韮崎クン。」

まさかこの彼と一緒にあの事件を追い掛ける事になるなんて、まるで思ってもみなかった。