笑顔の行方



「なぁ、今夜晩飯一緒に食わねぇか。」
「え?」
彼の誘いは別に珍しい事じゃないのだけど。
晩飯?飲みにじゃなくて?
「今、ヨメさんいないんだろう。」
「えぇ、そうなんです。また実家に・・・!?」照れ笑いで返事の途中に、はたと気付いた。
「な、何で知ってるんですか!?」
「だって、本人が言ってた。」
事も無げに答える森に面食らう。
「い、いつそんな話・・・・・・本人って?」
「一昨日、お前が潰れたのを送ってった時。」
え?え?
「お茶ご馳走になってな。ついでに少し世間話して。」
はぁ?
「娘さん、可愛いよなぁ。お母さん似だな、ありゃあ・・・・・・どうした?」
壁に縋り付くように項垂れる岩永の肩をぽんぽんと叩く。
「お父さんが遊んでくれなくて寂しそうだったぞ。」
「だ、誰の所為ですかっ!人のこと潰しといてっ。いや、それよりいつの間にそんな・・・」
抗議の言葉は溜息で途切れた。言うだけ無駄だ。
ホントに油断も隙もないんだから・・・。
各科の人員補強が決まったのはいいが、新しい医師の採用はそう容易ではない。
充分な腕と志、その両方が無ければヴァルハラの医師として迎える訳にはいかない。
それでなくても麻酔科医は絶対数が少なく不足している。
結局、補充の麻酔科医が決まるまでは、引き続き岩永一人で負担を引き受けていた。
それでも今日は時間通りに帰れるようだ。
ロッカールームを出た岩永を森がよぉっと手を挙げて出迎える。
しつこいのは知ってたし、ちょっと予想はしてたけど。
やっぱりなぁ・・・。
「お先に。」と横を通り過ぎる岩永にめげることなく、
「和食で美味い店連れてってやるよ。なっ。」
愛想良く笑って後ろを付いてくる。
(まぁいいか。どうせ今日は帰っても誰もいないんだし・・・)
横目で森を見て観念した岩永の表情を見透かしたように、森は満面の笑みで岩永の肩を叩いた。

賑やかで活気のある店内をすり抜けるようにして、店員が膳を運んできた。
黒塗りの膳の上に、シンプルだが懐石風に美しくあしらわれた皿が並ぶ。
「たまにはこういうとこもいいだろ。」
「そうですね。」
答えて箸をとった岩永は、森がやけに意味ありげににやついてる気がした。
変な感じ。何だか食べ物に釣られた気分だ。
(輝先生じゃあるまいし・・・)
食事の間、会話の最中も、森はいつもよりどこか嬉しげに見える。
「何だかずいぶん楽しそうですね。」
「そうか?」
訝しげな岩永の視線をかわすように笑う。
なおも気にするような表情に、
「いやぁ、お前も夫婦喧嘩なんかするんだな、て思ってさ。」
岩永の顔をわざとらしく覗き込んでみせた。
いくら自分がバツイチだからって・・・
(人んちの夫婦喧嘩がそんなに楽しいかな。)
「いけませんか。」
岩永がむっとして睨み返す。
「悪かねぇよ。」
その反応が予想通りだったと見えて、森は殊更可笑しそうに目を細めた。
「お前だって怒ったり愚痴こぼしたりする相手がいるんだなって。」
「嫌味ですか?」
「安心したってことさ。お前、人の話とか愚痴とか聞いてばっかりじゃねぇか。」
「そんなこと無いですよ。僕だって・・・」
岩永は自嘲気味に視線を落とした。
そう言えば、いつだったか・・・いつもの様に患者さんに話しかけてたらいつの間にか夫婦喧嘩の愚痴になっちゃって。途中で気が付いて凄く恥ずかしかったな。
「たまにはいいさ、喧嘩もな・・・」
森の箸が止まり、ふっと間が空いた。
「喧嘩もしねぇで、黙って出てくようになったらお終いだからな。」
目を上げると、いつもの森らしからぬ、微かに翳りを含んだ笑み。
「森先生・・・」
プライベートはともかく、医師としての森の誠実さが他の誰にも引けを取らないことは、岩永も疑わない。
日常の勤務は言うに及ばず、急患ともなれば何をおいても駆け付ける。
ただそういう行為が、時には家族に辛い思い、淋しい思いを強いる場合もある事も事実だ。
仕事熱心な医師の活動は、往々にして家族の『理解』若しくは『犠牲』の上に成り立っていることも、岩永は知っていた。
彼もそうして今の状況にあるんだろうか。
岩永の気遣うような表情に気付いて、森は照れくさそうな笑いに変わる。
「だからよ、喧嘩する時はちゃんと喧嘩しとけ。お互い言いたい事をちゃんと言ってな。」
「・・・はい。」

──あの人は優しすぎるから──彼女、そう言ってたな。
喧嘩になると自分が一方的に怒ってばっかり。
だから、時々頭を冷やしに実家に帰るんですよ。
・・・・・・きっとあの人は怒って帰ってると思ってるんでしょうね。
多分普段はもっと勝ち気な気性を思わせるだろう筈の顔立ち。それが、ほんの少し淋しそうに笑っていた。

「森先生?」
覗き込む岩永の声に我に返った。
「冷めちゃいますよ。」
今自分に向けられている穏やかな笑顔を懐かしげに見る。
誰にでもそうだと分かっちゃいるが。
ま、今だけは俺のもんだ。今だけな・・・・・・いいだろ。
「森先生。」
岩永は黙ったまま自分を見ている森の視線が気恥ずかしくて、遮るようにまた話し掛けた。
「あ、あぁ。・・・・・・なぁ、食ったらどっか飲みに行くか。」
「えー?晩飯だけじゃなかったんですか?」
「いいじゃねぇか。人生の先輩の貴重な経験を話してやるぞ。」
「ありがたくって涙が出ますよ。でも、失敗談じゃあね。」
「何をぉ。」
冗談めかして拳を作って見せると、すみませんと可笑しそうに笑って返した。

店の外へ出ると、まだ日中の温もりを残す夜風が柔らかく頬に触れた。
「でも、また潰れるまで付き合わされるのは勘弁して下さいよ。」
渋々森の後に続く岩永がこぼす。
「そーかぁ?別に俺は構わないぜ。」
森の返事に大きな溜息が漏れた。
「僕が嫌なんです!森先生だっていちいち僕を送ってくの面倒でしょう。」
「気にすんなよ。ちゃんと見返りは貰ってるから。」
「え?」
何だか聞き捨てならないセリフにどきりとする。やな予感が・・・。
「お前、酔い潰れるとキスしても怒んないもんな。」
はぁっ?!
「な、何て・・・今・・・?」
「あれ?知らなかった?お前、酔っぱらうと笑い上戸なの。」
いや・・・それは自分でも分かってるけど・・・。
「で、キスしても抱きついても怒んないからさ、俺は充分楽しいぜ・・・・・・あれ、どうした?」
絶句したまま真っ赤になって俯く岩永の肩をぽんぽんと叩く。
「ばかーっ!!」
前言撤回っ!離婚の原因は絶対この人の浮気だーっ!!

岩永先生、夫婦喧嘩華やかなりし(笑)頃のお話。
潰れたなでしこを送ったついでに抜け目なくお宅チェックする内科部長付きv


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