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派遣要請
───何て病院だ。
岩永は完全に呆れた。
手術中に合コンの話なんかして。
いくら簡単な手術だからって、患者さんの事を考えたらこんな態度。
全身麻酔で患者さんには解らないと思ってるんだろうけど、中には麻酔が効いてても周りの音が聞こえてる事例だってあるのに。
この患者さんがそういう体質じゃないことを願うばかりだ。
市内のとある個人病院から安田記念病院に麻酔科医の派遣協力の要請があった。
非常勤の麻酔科医の都合がつかなかったとかで、岩永がその病院の手術に立ち会うことになったのだが。
どう考えても場違いだった。
どうやら今回は、この患者個人が手術に際して麻酔科の専門医の立ち会いを特に希望したためにわざわざ呼ばれたらしい。しかし、麻酔科医の重要性の認識を云々する以前に、普段ここでどんな手術がされているか容易に想像できて、岩永は情けなかった。
ともあれ、手術は無事に終了した。
患者の経過にも不安要素はない。
若い医師達の話題はすでに今夜の予定に飛んでいた。
着替えた後も成り行きで片づけを手伝っていた岩永は、薬剤を保管室まで持っていくよう頼まれてまた呆れた。
いくら自分が麻酔科の専門医といっても、この病院では部外者である。
そんな人間を一人で薬剤の保管室に簡単に入れるなんてずさんな管理この上ない。
だが、看護師は何の躊躇いもなく岩永に依頼すると、さっさと別のワゴンを片付けに行ってしまった。
───その内何かトラブルを起こすんじゃないか、この病院。
岩永は溜息をつきながら保管室のドアを開けた。
場所を確認しながら慎重に薬を棚に戻し、麻薬類の棚の前で足が止まった。
「そうだ、鍵･･･。」
こういった麻薬類や毒劇物を保管する棚は厳重に鍵が掛けられている筈だ。
鍵、借りてこなくちゃ仕舞えないな──そう思いながら何の気無しに棚の戸に手を掛けて驚いた。
開いてる？そんなバカな！鍵も掛けてないのか？！
薬物管理のずさんさにあらためて呆れて、暗澹たる気分になった。
このままじゃ絶対何かトラブルを起こすに違いない。二度と来たくはないが、安田院長に頼んででも経営者に警告してもらうべきだろうか。
薬を収め、棚の中の在庫表と実際の数量を見比べていたその時。
「え？」
不意に人の気配。次の瞬間、頭部に激しい衝撃を受けて視界が暗転した。
床に薙ぎ倒され、そのまま意識を失った。
目が醒めた途端、頭の痛みに体が竦んだ。と同時に、両手首を後ろ手に縛られている事に気付く。
───ここ、何処だ･･･？
冷たいコンクリートの床に横たわったまま、薄暗い照明に目を慣らして見まわした。
さほど広くない倉庫、窓が無いから地下室かも知れない。置いてある雑品からすると、まだ病院内らしいが外の音は聞こえない。
岩永は痛む頭で、一つ一つの事実と意識を失う前の記憶を繋ぎ合わせて、考えたくない現実に突き当たった。
自分は殴られて拉致された。その原因は恐らく───あの在庫表だ。
助けは･･････期待出来ない。
今日はこの仕事が終わったら直帰の予定だった。終了の報告はまだ入れてないが、忘れたと思われたらそれで終わり。明日無断欠勤するまで、誰にも気付いてもらえない。
妻にしても、緊急手術が入って一晩くらい連絡無しで急に帰れなくなる事は時々あるから、不自然に思わないだろう。
絶望的な状況に、岩永は途方に暮れた。
入口で鍵を外す音がして、ドアが開いた。
入ってきたのは見覚えのある二人の若い男。
二人ともこの病院の医師で、一人はさっきの手術で合コンの話をしていた。
もう一人も医局で見かけた。確か病院長の息子だとか。
「何だ、もう気が付いてら。」
顔を上げた岩永を見下ろして笑っている。
「あんたも変なとこ見てないで、とっとと帰りゃよかったのにさ。」
「あの在庫表･･･？」
実際の在庫と違いすぎる数字。あってはならない事なのに。
「あぁ、やっぱり判ったんだ。」
「何処にやったんだ？犯罪だよ、こんなこと！」
「どこっつってもなぁ。」
「欲しいって奴に売ったり。結構いるんだぜ。」
悪びれもせず、岩永の顔を覗き込んだ。
「ま、あんたが心配するこたないよ。だからさ──。」
にやりと笑うと、力一杯岩永の腹を蹴り込んだ。
「ぐ･･･ッ！」
痛みに身体をくの字に曲げ、息苦しさに咳き込んだ顔を靴のつま先が触ったかと思った瞬間、激しく蹴り上げられた。
口の中に血の味が拡がり、意識が遠のく。
一人が動けなくなった岩永の身体を押さえ付け、もう一人が袖を捲った。
「暫く寝ててよ。仕事終わったらまた来てやるからさ。」
腕に小さな痛みが走る。
岩永は背筋が凍りついた。
───このままじゃ本当に殺される？！
しかしどうすることも出来なかった。
強引に暗い闇の底に引きずり込まれるような感覚。
抗えぬまま意識は薄れていく。
「じゃ、ゆっくり寝てな。良い夢か、悪い夢かはあんた次第だよ。」
冷めた笑い声と遠ざかる靴音が耳の奥に微かに残った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「おっせーなぁ。」
森はハンドルに乗せた手の上に顎を重ねて呟いた。
時間を見計らって来たのに、病院の駐車場に車を止めてから、もうかなり待っている。
手術の終了時間は岩永が事務局に提出していった行動表を見て、しっかりチェック済みだ。
これなら、自分の仕事があがってから立ち寄ったらちょうどいい頃合いだと思ったのだが。
そう長引くような難しい手術じゃなし。経過確認や、あれこれ雑用を含めても、ちょっと遅すぎやしねぇか。
せっかくあいつの驚く顔が見られると思って期待してんのになぁ。
痺れを切らし、ついに病院の中に入って受付で尋ねた。
だが、確認して戻ってきた職員からは意外な答えが返ってきた。
手術は予定通り終わっていて、派遣された医師はもう帰ったと。
そんな筈はないと食い下がろうとしたが、
「いらっしゃらないのですから、帰ったんじゃないですか？」
職員は取り付く島もない。
（態度悪りぃな。）
不満ではあったが、それ以上どうしようもない。
車に戻って、もう一度考えてみた。
「本当に帰ったんだろうか･･･？」
手術が終わって、それこそすぐに帰ったのならすれ違いもあり得るが、岩永がそんなドライな事をするとは思えない。
正面玄関と職員用の通用口は別だが、門は一つなので通ったのなら見落とす筈もない。
ふと、嫌な予感がよぎる。
考えを巡らせた後、森は携帯電話を取り出し、安田記念病院へ掛けた。
岩永から仕事終了の報告が入ったかどうかを尋ねた。
事務局と、ナースステーションと、医局にまで確認してもらって返ってきた答えは『Ｎｏ』。
「どうかしました？急用ですか？」
電話の向こうの心配気な声には適当な返事で誤魔化したが、嫌な予感はますます強くなる。
あの律儀者が報告もせずに帰る訳ない。
証拠は無い。が、岩永の身に何かあったのだ。それもあの病院の中で。
だが、はっきりしたことは何も判らない。
この状況では警察に言っても無駄だろう。
「どうしたもんかな。」
思案しながら、時間ばかりが過ぎていった。
肩の辺りを蹴られて、岩永は僅かに意識を取り戻した。
････誰かいる･･･
「どうだ？」
「さぁな。」
一人が屈み込んで岩永の襟首を掴んだ。
「おい、あんた。気分はどうだい？」
･･････なにか･･･言ってる･････きぶ･･ん･･･て？
「気持ち･･･わる･･。･･･吐きそ･･････。」
辛うじて声を絞り出す。
「切れかかってんな。」
「途中で目を覚まして、騒がれたらやばいぜ。」
「もうちょっと眠っててもらうさ。」
「ここで殺っちゃった方が早いんじゃないか。」
･･････やっぱり殺される･･んだ･･･
岩永は感覚の麻痺した靄のかかったような頭で、ぼんやりと二人のやりとりを聞いていた。
昨夜抱き上げた幼い笑顔が脳裏に浮かんだ。それに妻の。
───もう、帰れないよ。ごめん･･･
不思議と、恐怖よりも悲しみが先に立っていた。
腕を掴まれ、さっきと同じ処にまた小さな痛み。
「ここで殺ってどっか棄てる前に見つかったら、それこそまずいだろ。息さえあれば何とでも誤魔化せるし。俺達医者なんだから。」
･･･もう、逢えない･･･ヴァルハラの皆にも･･･
･･････あの人にも･･･。
再び闇が自分を引きずり込もうとする。
それが救いにすら思えて、そのままその誘いに身を委ねた。
男は動かなくなった岩永の腹を強く蹴り上げて、反応が無いことを確かめた。
「よし、ぼちぼち行くか。」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
森は携帯電話を握ったまま、車内にいた。
ただ待っていた。何を待てばいいのか解らない。今はただ待つしか出来なかった。
このまま朝まで何も起きなければ、警察を呼ぼうと決めていた。
深夜を過ぎて、病院の建物は静まりかえっている。
何度目か解らない溜息をついたその時。
職員用の通用口に動く人影。二人がかりで一人の人間を両脇から抱えている。
それだけを視認して、森は躊躇なく携帯電話のボタンを押した。
男達は職員用の駐車場まで岩永を引きずるようにして運び、車の後部座席に投げ込んだ。
ひと息ついて、「急ごうぜ」と後部ドアを閉めようと手を掛ける。
「おいっ！！」
背後から突然の鋭い声に、一瞬二人の体が固まった。
「うちの医者、どうする気だよ。」
怒気を含んだ強い言葉に怯んだ隙を見逃さず、森は一人の顔をいきなり殴り付けた。
続けて振り返り様、呆気に取られるもう一人に肩口から体当たりを喰らわせ後ろの車に叩きつけた。
二人とも頭をぶつけたのか、倒れ込んだまま動かない。
「うまい具合に一発でのびてくれて助かったぜ。」
ふーっと大きな息を吐いた。学生時代のラグビー部経験がこんなところで役に立つとは思わなかったな。
倒れた二人が起き上がってこない事をもう一度確認して、後部座席に横たわる岩永を抱き起こした。
先ず呼吸を確かめてから、手早く身体を調べた。
口の中が切れているが、大した傷じゃない。
両手首と腹の痣が痛々しかったが、骨にも異常はない。
いくら呼んでも意識は戻らない。腕の痕から薬物を打たれたのは明らかだ。
それだけが気がかりだったが、もう一度呼吸が安定している事を確認して、安堵の溜息を漏らした。
サイレンの音が近づいてきている。パトカーと、聞き慣れた救急車のサイレン。
いつもはあまり聞きたくない音だが、この時ばかりは待ちかねた頼もしい響きだった。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
気が付くと、見慣れた感じの天井が目に入った。
正確に言えば、初めて見る部屋だった。それでも、そこが病室という岩永にとって日常的な空間であることが安心感を与えていた。
「気が付いたか。」
聞き馴染んだ優しい声。自分を見下ろす温かい瞳がひどく懐かしく思えた。
「･･･森先生。」
「気分はどうだ、ん？」
少し頭が重いけど････
「大丈夫です。･･･ここ、何処です？」
「警察病院だ。」
幾分無理をしているのが見てとれて、森は岩永の頭を軽く撫でた。
「あの連中は逮捕されたよ。病院長のバカ息子らしいな。」
「そうですか。」
「病院ぐるみかどうかは解らんが、これから調べられるだろう。」
「･･････」
「どのみち、何らかの責任は追及されるさ。」
「そう･･････良かった。」
やっと安心したように目を臥せる。
森はまた岩永の頭に手をやると、髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「病院には事情を説明しておいた。家の方にも知らせたから、追っ付け来るだろうよ。」
「あ･･･ありがとうございます。」
「検査だ何だで一泊留められるみたいだから、ゆっくり眠れよ。ヨメさんが来たら起こしてやる。」
「はい。すみません。」
じゃあな、と部屋を出ようとする森を見て、岩永は慌てて呼び止めた。
思い出したように湧いた一つの疑問。
「あの････どうして僕、助かったんですか？誰が･･･？」
助けてくれたのか。
絶望しかなかった。助かるなんて思えなくて。
一体どうして？･･･まさか･･････
立ち止まった森はちょっと答えに窮して、
見つめる岩永の視線から目を逸らした。
「んー、まぁ、何だ。」
頭を掻いて
「あんたは自分の律義さに感謝しとけよ。」
「は？」
きょとんとした岩永を残して、病室のドアを閉めた。
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