「そろそろいい時期だよなぁ。」
革張りの椅子をくるりと窓側へ回転させて、安田が呟く。
報告の終わった資料を整えながら、北見もその視線を辿って窓の外に目をやった。
「桜･･･ですか。」
院長室の窓から見える中庭の一角。数本の桜の木が、このところの陽気で蕾をふくらませているのが、ここからも見てとれた。
「院長、去年のような騒ぎは勘弁して下さい。」

去年、安田は集まってきた小児病棟の子供たちと一緒に桜の木の下でパチンコの戦利品の菓子を食べていた･･･‘お花見会’と称して。
もちろんそれだけなら大した問題はなかったのだが。
いつの間にか、大人の患者たちも集まりはじめ、気が付けば桜の周辺が大賑わいとなってしまったのだ。
自分も出たがる外出禁止の重症患者や、手術を控え絶食中の子供たちを宥めるのにナースや医師達がどれだけ苦労したことか。

「あ〜んなおおごとになるとは思わなかったからよぉ。」
当の本人は屈託なくかかかと笑う。
「一昨年はそんな騒ぎにならなかったし。」
「たまたまその時期に入院患者が少なかっただけでしょう。」
「そーだっけ？」
上目遣いに北見の顔を伺う。
やべー。今年もやったらマジで怒るな〜。
「わぁーたよ。大人しくしてるって。」
かなり疑わしいセリフだが、北見はため息をついて一旦引き下がった。
安田のお祭り好きは今に始まったことではないし、大概のことにはもう慣れた。
それに彼が何かしだすと周りに人の輪が出来るのは本当にごく自然なことで。できれば大目に見てやりたいところだが。
ぎりぎりの人数でがんばっているスタッフ達の負担をこれ以上増やされたくはないのも正直な気持ちだ。
再度くぎを差したものの、安田が今年も何かやらかしそうな予感は拭いきれなかった。

やがて桜の開花宣言が巷のニュースに流れた。
ヴァルハラの桜も三分、五分と順調に花開き人々の目を楽しませながら、日々は平穏に過ぎていった。

そんなある日。
仕事があがってロッカールームのドアを開けた森は、帰ろうとする岩永とばったりかち合った。
「よぉ、今帰んのか？ちょうどいいや。またつきあえよ。」
岩永は露骨に大きなため息をついた。
「生憎ですけど、今日はお先に失礼します。」
「何でだよ。何か用事でもあんのか？」
「別に･･･用はないですけど･･･」
いつものような押し問答の最中、
「お、岩永！いいとこで見つけた。ちょうど捜してたんだ。」
意外な時に意外な人物からの声。
「「院長？･･･」」
殆ど二人同時に声が重なった。
しかも、その安田の格好に二人とも二の句が継げない。
トレードマークの開襟シャツではなく、Ｔシャツにオーバーオールのジーンズ。自動車修理でもしてたのかという姿だ。
「何ですか、その格好？」
漸く口にした森の問いには答えず、岩永の肩に手を置いてニカリと笑う。
「お前ぇ、機械いじり得意だよな。」
「は？」唐突な言葉に戸惑う。
「いや･･･得意という訳では･･･」
首を傾げながらも、取り敢えず答える。
「でもよ、パソコン自分で組み立てたりしてんだろ。」
「あ、あれはマニュアルがあったりして･･･そんな難しいものじゃ･･･」
「何でもいいや。とにかくコード繋げたりすんの得意だろ。ちょっと手伝えや。」
「はぁ？」
言い訳空しく、岩永は安田に腕をがっちり掴まれ連行されていく。
呆気にとられて見送った森は、我に返って頭を掻いた。
院長にかっ攫われるたぁ･･･。
あの様子からすると、また何か企んでるのは確かなようだが。それもどうやら今回は仕掛け物らしい。
ふ〜ん、まぁ、今回は譲っとくか。御大自ら何をしてくれるんだか、お楽しみだ。
廊下の向こうから仕事を終えた北見がやって来る。
「よぉ。今帰りか。」
「えぇ。」
「どうだ、ちょっと付き合わねぇか。」
こういう場合、黙っとくのが親切ってモンだよな･･･他人の企みは。

例年にない暖かさのせいで、桜は早くも満開に近い。
柔らかな風にさえも耐えきれず散り始めた花びらが舞い落ちる。

その様子を病棟の廊下から見留めて、北見は立ち止まった。
桜ももう終わりか･･･。
このところ姿を見ない時間が増えたような気がしていたが。
院長のことは取り越し苦労だったかな。
安心したような、気が抜けたような、少し残念なような気が・・・。
いや、そんな事にいつまでも気を取られている場合じゃない。
第一、今日はこれから大きな手術が待っている。長引けば夜までかかるかもしれない。
手順の確認作業は念入りにしておかなければ。
北見は踵を返して、足早にカンファレンスルームへ向かった。

手術が無事終わる頃には、もう陽は落ちて外は暗くなり始めていた。
医局へ戻った医師達を、当直予定の森が「お疲れさん」と迎えた。
「じゃ、僕はこれで。お先に。」
「あ、俺も帰ろっと。」
「あぁ。お疲れ。」
帰り支度を終えて部屋を出ようとドアを開けて、先ずそれに気づいたのは輝だった。
「ねぇ。･･･何か騒がしくありません？」
確かに、何かざわざわと声がする。
その場の全員が一瞬示し合わせたように黙って耳を澄ませる。
別に誰かが大声で騒いでいるというのではない。
ただ、建物全体にざわざわとした漣のようなざわめきが充満している。
いったい何が？
お互い訝しげに顔を見合わせた時、それに最初に気付いたのもまた輝だった。
「あれ？窓の外、妙に明るいような･･･。」
途端に、「あっ」と何か思い当たったらしい岩永が窓に走り寄り、ガラス戸を全開する。
「･･･これだったんだ。」
後に続いて全員が窓際へ駆け寄り、外へ目をやる。
「うわぁ･･･すっげーきれーだぁ！」

彼らの視線の向こう、今が満開の桜の木々。
それらが夜目にもさやかにライトアップされていた。
幾筋もの光線に照らされて鴇色の花々と、そこから時折零れ落ちる花びらが闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
「きれーだぁ･･･」もう一度、呟くように輝が繰り返した。
森が思い出したように岩永を振り返る。
「あんた、これを手伝わされたのか。」
「え？えぇ、まぁ。でもこんな風に使うとは･･･」
「お前、知ってたのか！？」
北見に勢いよく振り向かれて、思わず身を引く。
「いや、だから･･･ケーブルのセッティングを手伝っただけで。何に使うのかは教えてくれなかったし。」
「あ！あそこにいるの院長じゃないスか？！」
「何っ！？」

安田は桜の木の脇に立って自分の労作を仰ぎ見、次いで病棟の窓に連なる皆の笑顔を見上げて満足の笑みを浮かべた。
うん、いいんでないの。
散っちまう前に間に合ってよかったぜ。
あんまし大掛かりには出来なかったが、まぁ風流な演出ってことで。
自分を呼ぶ声がして、中庭を横切って走ってくる人影をみとめた。
長い前髪を踊らせ、白衣を翻して、薄闇の中を駆けて来る。
その頬が僅かに紅潮して、降りかかる花びらと同じ色に染まって。

安田は自分の企みの成功を実感して、思わず頬が緩んだ。