ほんとうの願い

「何か落ちましたよ、北見先生。」
ひらりと床に落ちた細長い紙片を拾い上げた岩永が声を掛けた。
カルテやデータ資料とは明らかに異質な水色の紙。
一瞬、怪訝そうに表裏を見た岩永は、すぐに小さく吹き出した。
「そんなに可笑しいか。」
不機嫌そうな北見が引ったくるように受け取る。
「いえ。」
そう言いながら岩永の含み笑いは収まらない。
「また、院長命令ですよね？」
「･･･他に誰がいるんだ。」
こんな子供じみた事、自分にやらせる人間が。まったく・・・・・・。

いつからだろうか、願いを込めて短冊を飾るなんてしなくなったのは。
転勤族の親に連れられて友達を作る余裕もない学校生活は、少年を幼いうちからかなり醒めた性格にしてしまっていた。
学校行事で書かされる短冊にその場しのぎで当たり障りのない文句を書いていた事を思い出すと、今更ながら捻くれた子供だったなと北見は苦笑した。
実際、書いた願いが叶った記憶はなく、書いた内容すら殆ど覚えてもいない。
気が付いたときには、願い事なんかをするよりは目的に向かってひたすら努力する方が性に合ってる自分になっていた。そうやって結果を手に入れてきたと信じている。
いつだったか、そんなことを話したら
「そういうやつこそ書かなくちゃな。」
いつもの悪戯っぽい目がきらりと光った。
「正直に書いてみな、今の自分の願いが何なのかをさ。」
生真面目だね、お前さんも。安田はかかかと笑いながら北見の手を掴んで、持っていた短冊を強引に押し付けた。
「正直にな。院長命令だぜ。」
そして、七夕の短冊は今年も例年通り、院長命令と供にヴァルハラ全職員に配られた──もちろん北見の机にも。

ナース達が楽しそうにお喋りをしながら、大振りの竹の枝に短冊を引き結ぶ。
小児病棟の子どもたちがそれを取り囲んで、ここだけは病院とは思えない賑やかさだ。
患者と職員の分を併せた短冊はかなりの数。そのひとつひとつが丁寧に結ばれていく。

「綾乃さーん、俺も手伝いますよ。」
輝がやってきて声をかけた。
さっき通りすがりに見かけて以来、実は手伝いたくてうずうずしていたのだ。
「ありがとうございます。でもお忙しいんじゃ？」
「いーの、いーの。糸結びの練習ってことで、ね。」
箱の中から短冊を取り出して、細い糸を笹にくくりつけようとするが・・・
「あれ？」
（・・・）
「よっ。」
（・・・・・・）
ぶちっ☆「げっ！」
（・・・・・・・・・）
「輝先生、お気持ちだけで充分ですから。」
遠藤にやんわりと断られて、仕方なく結ぶ方は諦め、手渡す係に専念するしかない。
「皆、いろんなこと書いてるなぁ。」
短冊の束を揃えながら輝が呟いた。
やはり一番目に付くのは健康に関する願い事だ。自分の回復、家族の健康。
「この辺は先生達のやつだな。」
見覚えのある筆跡が並んでいる。たぶん片岡先生に、こっちは岩永先生・・・・・・青木先生だよな、これ。『早く彼女が出来ますように』って、ストレートすぎだよ。
「輝先生は何て書いたんですか？」
綾乃に尋ねられて、輝は少し照れくさそうに一枚を抜き出した。
「俺はやっぱりこれかな。」
短冊いっぱいに書き殴ったような文字は
『目指せ！ゴッドハンド！！』
「そりゃあ、なんてったって俺の目標はいつかあの北見を追い越して、ゴッドハンドになることですからね。」
自分の可能性を信じて疑わないその笑顔が、笹と一緒に揺れる短冊を見上げる。
綾乃はその横顔を頼もしく見守っていた。

いろんな願いの託された短冊を繰っていた輝は、几帳面な字体に手が止まった。
「え？・・・あの、これって。」
輝の手にした短冊を両側から覗き込んだ遠藤と綾乃が目を見合わせて微笑む。
「あぁ、これ・・・」
「ですよね。」輝が確認するように二人に聞き返す。
「えぇ、そうですよ。」
「ふ～ん。」ちょっと意外そうな顔で小首を傾げた後、輝は嬉しそうににかっと笑った。
「もしかして、あれで案外ロマンチストなのかな。」
「しかもね。」
更に意外な事実を、遠藤が付け加える。
「毎年、同じなんですよ。この願い事。」
水色の短冊には本人の性格そのままの生真面目そうな文字。
『この病院が永遠であり続けますように』

葉っぱと同じくらい沢山の短冊を携えこんもりとした笹の枝が、風に揺れる。
さわさわと葉擦れの音がやけに耳について、北見はふと溜息を漏らした。
──本当の願い事なんか正直に書けるわけない。

俺の願い。それは──
『あなたのようになること』
『常にあなたの傍にいられること』
だが、あなたは俺に望む。
『俺を超えろ』と。

だからその願いを書くことは決してない。
あなたの願いと重なることのない･･････俺の本当の願いを。

『ヴァルハラが永遠であり続けますように』

「ウソは書いてませんよ、院長。」
今頃どの辺りにいるんだか。傾き始めた西日に恨めしそうな視線を向けた。
（今年は『早く帰ってきますように』とでも書いておけばよかったかな。）

今のところ、これも紛れもなく北見の切実な願いであることは間違いないのだから。