彼はいつも優しい口付けをする。
戯れに掠めるような、ただ触れるだけのキス。
それだけでも、僕はいつもパニックになって
慌てふためいて逃げ出す。
そういう僕を、彼は愉快そうに見送る。
そうやっていつもからかわれる。


彼の瞳が笑っていないことに、僕は気が付かないフリをした。
そうやっていつもの冗談で済ませたかった。
でも僕の態度がかえって彼を煽る羽目になったのか。
背中に感じる冷たさは、押し付けられた壁の所為ばかりじゃなかった。

大きな手に引き寄せられて逃げられない。
押し返そうとする僕の抵抗なんか無駄なだけ。
いつもとは違う、何もかも奪い尽くすような強引な口付け。
それは息が苦しくなるくらい長く続いて。
やっと離れたと思う間もなく、再び絡め取られる唇。
角度を変えて、さっきよりも更に深く。
押し入ってくる舌は容易に僕の理性を食い破る。
為す術なくただ翻弄され、蹂躙され
漸く解放された時には立っていられなくて、自分から彼の腕に縋り付いていた。
「どう・・・して・・・・・・？」
今にも崩れそうな僕を見て、彼は可笑しそうに笑う。
「あんたはいっつもそうやって訊くな。『何で』、『どうして』って。」
「だって・・・どうして、僕なんか・・・・・・」
途切れ途切れの声が微かに震えてるのが自分でも分かった。
恥ずかしくて身の置き所がなかったけど、立っているのがやっとで逃げ出すことさえ叶わなかった。
「理由が欲しいのか？んなもん、後付けでよけりゃいくらでもやるぜ。」
くっくっと笑って彼が答える。
「そのお人好しさ加減とか、からかい甲斐があるとことか、な。けど・・・・・・」
顎を捉えて正面を向かせる。
口元とは対照的な表情を湛えた瞳がそこにあった。
「本当は理由なんて分からねぇよ。気が付いたら惚れてた、それだけだ。」
それじゃだめか？と僕を覗き込む。

その時僕は、どんな顔をしてたんだろう。
彼は急にひどく困ったような様子で、僕の頬に手をやった。
ついと指を滑らせて、頬を伝うものを拭う。
そう、僕は泣いていたんだ。
「こういう泣き虫なとこも嫌いじゃねぇがな。」
彼は濡れた指をぺろりと舐めて、おもむろに僕の項に手を掛けた。

『何故』彼が僕を選んだのか。
『どうして』涙が止まらないのか。
疑問の答えは何一つ見つからないままだけど。
確かに分かったことがただ一つだけ。

僕は、もうとっくにこの人に捕らわれているんだ、と。

また降りてきた唇が、僕を壁に縫い付ける。
獲物を手に入れたしなやかな獣のように、ゆっくりと満足そうに貪る。
もう僕はそれを拒むことが出来なかった。