眠りから醒めた患者さんに話しかける。
目を細めた笑顔を見せてくれると、いつも僕は嬉しくなる。

僕が此処にいる理由。

岩永は誰もいない手術室のドアを開け、明かりを点けた。
手に持った書類を見ながら幾つも並んだ器械に近づいたその時。
「あれ？何か使うのか、ココ？」
覗き込んできたのは、森だ。

内科の森がなぜ外科のエリアにいるかを、岩永は特に不思議とは思わなかった。
安田に負けず劣らず気さくな森は、外科に限らずどこの科にもしばしば顔を出し、スタッフ達とコミュニケーションを取るのが巧みだ。患者だけでなくスタッフにとっても頼りになる存在となっている。
表向き、ヴァルハラのトップ安田に続くＮｏ.２は外科部長 北見であるが、その北見でさえ森に対しては安田の旧友として、また尊敬に値する名医として一目置いている。
（ほんとにこの人は神出鬼没だな。）
岩永はくすっと笑って答えた。
「いえ、新しい測定器が入ったんで今のうちに点検しておこうと思って。」
カバーが外され電源が入ると、微かなうなりとともにモニター画面に文字が走る。
「そんなの、納入の時にメーカーの担当と一緒にやったろ。」
傍に近寄ってきた森がモニターを覗き込む。
「でも、やっぱり自分でもやっておかないとね。」
岩永は書類と器械の各部を見比べながら一つ一つチェックしていく。
「ふーん。」
森はイスを引き寄せて坐ると、棚の端に肘をついて黙って岩永の横顔や手の動きを目で追う。
その視線を少し居心地悪そうに意識しながら、岩永は作業を続けた。
「どうかしたんですか？」
一つ確認が済む度に書類に書き込んでいた岩永が、思い切って訊ねる。
「何が？」
「だって･･･」
らしくないですよ、と言って、また紙上にペンを走らせた。

「終わったのか？」
納得したような岩永の表情を見て、森が訊いた。
「えぇ。問題無しですね。」
森の顔を見て、「血圧でも測ってみますか？」と笑う。
「止めとくよ。不摂生がばれちまう。」
軽く肩をすくめて森が答えると
「だったら、余計に測らなくちゃ。」
岩永はそう言ってまた微笑った。

正直な話、森はこの笑顔がかなり気に入っている。
一番いい表情は術後の患者さんに接する時だ。
感情が素直に出ている岩永の穏やかな笑顔は、いつもこっちまで柔らかい気持ちにさせてくれる。
だからこそ、彼がＫＺ病院の引き抜きに応じたと聞いた時は意外であると同時に少し失望を覚えたし、戻ってきた時にはやはり嬉しく思ったものだ。
おかげで、それから暫くの間ちょっかいを出す機会がかなり増えて、少々当惑させてしまったようだったが。
（まぁ、そのくらいは俺を一ヶ月間退屈させたお返しだ。）

「あの･･･」
ペンを胸ポケットに仕舞いながら、また岩永が話しかける。
「ん？」
「やっぱりヘンですよ、森先生。」
「何処がだよ。」
森は立ち上がって、今度は岩永の持っている書類を覗き込む。
「僕なんか眺めてにやついてるのはどう考えてもヘンでしょう。どうせ眺めるなら、佐倉さんとか佐野さんとか、北見先生とか･･･」
言った後で、北見の名を出したのはちょっと失敗だったかも知れないと思った。
（この人だと冗談じゃなくなっちゃうからなぁ。）
自分の考えた事に自分で赤面する。
その微妙な反応を読み取ったようににやりと笑った森が、いきなり背後から左腕を廻して岩永の細い首を抱え込んだ。
「ぅわぁっ！」
素っ頓狂な声を上げた岩永に、森は笑いが止まらない。
「まったく、かわいーなぁ、あんた。」
「はぁぁ？」
ますます顔を赤くしてじたばたする岩永をしっかり絡め取ったまま、右手で岩永の頭を撫でまわし髪をくしゃくしゃにした。
「森先生っ！もう！」
狼狽えながらも岩永が必死の抗議を試みる。
「あんまりふざけないで下さい！いいんですか？いつまでもこんな所にいてっ！」
やっとの思いで森が弛めた腕から逃げ出したが、背後は機材と壁でもう逃げ場はない。
「心配すんな。まだ回診の時間には間があるし。」
ふふん、と余裕を見せて一歩にじり寄る森を目の前にして後ずさる。背中に当たった金属の感触にパニックが加速する。
頭の中が真っ白になりかけたその時、不意に
「───ッ！」
森が額に手をやって吹き出した。
「え？･･･あ？！」
やっぱりまたからかわれた！･･･そう思った途端、安堵とともに大きな溜息が出た。
森は声を噛み殺して笑い続けている。
なんで彼はこうも頻繁に自分をからかうのか。岩永には理解出来なかった。
ダンディな風貌と陽気で気さくな話し方の森は、大人の魅力と評され人気絶大なのだが、ちょくちょく自分をからかって楽しむ様子は、まるで子どものようだ。
毎回それに引っ掛かっている自分も自分なのだが。
岩永は言い返す気力も無くて、ただボサボサにされた髪を梳き直すしかなかった。

森は一頻り笑いきって満足したのか、
「さ、まだ時間あるし、」と、ドアへ歩きかけ、
「あんたご推薦の北見先生の顔でも眺めに行くかぁ。」
岩永を振り向いてにやっと笑う。
「北見先生は今、外来ですからダメですよ。」
せめてもの仕返しのつもりで岩永は言ったが、
「ほぉーお、北見の予定はよく覚えてんだなぁ。」
突っ込み返されて、もうぐうの音も出ない。
ドアの前で森はもう一度振り返り、
「じゃあ、ナースステーションだな。」
愉快そうに笑いながら出て行った。
手術室に静けさが戻る。
岩永は握り締めてしわくちゃにしてしまった書類に気が付いてまた一つ溜息をつくと、器械の電源を切った。

廊下を歩く森の足取りは軽く上機嫌だ。
真っ赤になってあたふたする岩永を思い出して、また顔が緩む。
患者さんの笑顔にあんたが喜んでるように、あんたの表情一つが楽しみな奴もいるんだぜ。
けど──
あいつが此処にいるだけで俺が幸せな気分でいるなんて事、多分あいつは一生思いもよらないんだろうな。
ま、いいさ。こいつは当分俺の密かなお楽しみだ。