除夜の鐘は点けっぱなしのテレビで微かに聞いた。

大晦日から正月にかけての救急病院は、ありがたくない事だが、毎年息つく暇もない大盛況だ。
それでも何かの弾みのように、ぽっかりと空白の時間が空いたりする。
ベテランの森はそのタイミングを逃さなかった。
「やれやれ、今のうちに一息入れとくか。」
当直室に戻ると、どっかとソファに寝転んで伸びをした。
若い頃は盆暮れの当直もよくやらされたものだが、この歳になるとさすがにちょっと辛い。
テーブルの上には、毎年恒例となった皇理事長差し入れの料亭おせちの重箱が拡げられたまま放置されているが、モノを喰うより横になっていたい欲求の方が勝つ辺りに歳を実感して、一人苦笑した。
どうせこんな静かな時間は長くは続かないのだけれど。

案の定、近付いて来る足音に気付いてふぅっと溜息一つ。
そして、ドアの開いた音と同時に身を起こし
「おう、また急患･･か･･･････ぁ？」
起こしたままの姿勢で固まった。

「あ、森先生。明けましておめでとうございます。」
顔を出したのは岩永だった。
「他の皆は処置室ですか？」
「ん？あぁ･･･処置室やら手術室やら。俺はちょうど一区切り着いたとこ。」
と、ここまで言って「あ、明けましておめでとう」と付け足した。
「けど、なんであんたが････」
年中行事の休暇取得は家族持ち優先が基本。今年は折悪しく人手不足が重なって丸二日とはいかなかったが、当然、岩永も優先組だ。シフトでは確か、今日夕方からの遅番だった筈なのに。
「えぇ、昨夜から妻の実家に泊まって今朝早くに出て来たんですけど、道路が意外に空いてて予定よりかなり早く戻ってこれたんで。」
「そうか。まぁ座れよ。腹空いてんならその辺のおせちつまんでろよ。」
「あぁ、これが噂の“豪華料亭おせち”ですね。皇さん差し入れの。」
そう言いながら座った岩永は、手に持っていた紙袋を脇へ置いた。が、隠すように置いたそれが通勤には不釣り合いなのが森の目を引いた。
「何だい、それ？」
「え･･･いや、別にその････」
拙い愛想笑いで誤魔化そうとするが、言うまで許してくれそうにない森の視線に観念して、岩永はもそもそと紙袋をテーブルの上に載せる。
そして取り出した容器を森の前に遠慮がちに置いた。
「あの･･･良かったらどうぞ。」

蓋を開けた森が「へぇ〜」と声を出すと、岩永は恥ずかしそうに俯く。
中には煮物だの鱠だの、いかにも手作りのおせち料理が並んでいた。
「もしかして、奥さんの手作りおせちか？」
「････僕も手伝ったんですけど･･･。」
「へ？」
「大掃除を張り切り過ぎて、彼女熱出しちゃって。なのにおせちも作るって聞かないものだから、僕も一緒に手伝ったんですよ。」
「ふ〜〜ん。」
あの気が強そうな奥さんを気遣って甲斐甲斐しく手伝う姿を想像すると、かなり頬笑ましい光景だ。
にやにや笑う森の顔を見て、岩永は拗ねた表情でぷいとそっぽを向いた。
「何考えてるか判りますよ。どーせ、尻に敷かれてると思ってるんでしょ。」
「そんなこた、ねぇが････」
───しかしなんでまた、今年に限って病院にまで？
そんな疑問に、ひとつだけ思い当たる答えがあった。

離婚したとは言え、森も一児の父親。本来は優先組の一員だ。実際、例年なら休暇を貰っているところだが。
今年は元カミさんの両親たっての希望で、息子は冬休み中あちらに里帰りとなった。
確実に息子と休暇を過ごせる貴重な機会ではあるが、孫と正月を過ごしたいと言うじーさんばーさんの願いを袖にする気はない。
ただ、そうなると一人じゃどうせ暇を持て余すのは目に見えている。この際、故郷が遠距離の若い医師を帰省させて、替わりをかってでる事にしたのだった。
───もしかして････慰めてくれてんのかね、コイツ？
手の中の料理と耳まで赤い横顔をしげしげと見比べていると、更に顔を赤くした岩永が手を伸ばして容器を取り戻そうとする。
「い、いいですよ、無理して食べなくても。こんな立派なおせちがあるんだし。」
森はひょいとその手を避けて容器を確保すると、にんまり笑って答えた。
「いや、ありがたく戴くよ。」

 

「ふぇ〜参ったなぁ、もう。」
欠伸とも溜息ともつかない大口を開けたまま、輝が当直室に入ってきた。
一段落したらしい安堵の表情でソファに腰掛けようとして
「毎年毎年変わんないもんスね、この忙しさ･･････ぅわっと。」
危うく先客に気付く。
仮眠用の毛布にくるまって寝息を立ててる人物の顔を覗き込んで、首を傾げた。
「あれぇ、岩永先生。何で居るんですか？今日は午後からじゃあ････」
熟睡して答えが返りそうにない本人は諦めて、森の方に目線を向けた。
「まだ寝かせといてやれよ。奥さんの実家から戻ってすぐ来たらしいぜ。」
箸を動かすのに余念がない森の返事に「ふ〜ん」と頷いた後、森が箸を付けている見慣れぬ容器に目が行った。
「それはいいスけど。何食べてんですか、森先生？」
今度はそっちの中身を訝しげに覗き込む。
こんなのさっきまで無かった筈････て事は････
「あーっ、もしかしてそれ岩永先生の差し入れっスか？」
「まぁな。」
「ずっるーい！俺にも下さいよーっ！」
子供のようにせがむ輝を軽くあしらいながら、森は最後の伊達巻きを口に放り込んだ。
「悪りぃ。全部喰っちまったよ。」
ぷっと頬を膨らまして恨みがましく睨む輝に苦笑して、宥め賺す。
「そんな顔すんなよ。ほれ、おせちはまだ一杯残ってるじゃねぇか。」
もちろんそんな慰めで素直に納得出来る輝ではないが。
───そんな事言ったって、欲しかったのは岩永先生んちのだったのにぃ〜！

この後、ヤケクソで残りの重箱を全部空にした輝が、他の当直医師やナースらから非難の集中砲火を浴びたのは言うまでもない。