「は〜ぁ。つれねぇよなぁ、あんたも。」
「え？」
独り言にしては大きすぎる内科部長のぼやきに、斜め向かいに座ってカルテのデータをパソコンに打ち込んでいる外科部長が律義に返事をする。
「なんでもねぇ。」
森がにんまり笑ってみせると北見はちょっと怪訝そうな顔をしたが、すぐ視線をモニターに戻した。

医局の中には今、北見と、休憩時間の茶飲み相手を求めてふらりと現れた森しか居ない。滅多にない取り合わせだ。
片岡と沖は今日は外来担当だし、岩永はさっきシフト明けで帰ったし。
輝は････毎度の事ながら、多分ナースステーションでクッキーにでもありついてるのだろう。
緊急措置も救急車の飛び込みもない、平和な午後。目の前に仕事に勤しむクールビューティを眺めつつコーヒーを戴く───悪くないねぇ。
だが、午後の回診の時間が近づいていた。
森は立ち上がって北見の背後にまわり、モニターを覗き込む。
「何なんです？」
また怪訝そうな瞳で見上げられて
「なぁんでもねぇよ。」
行きがけの駄賃に北見の髪をくしゃくしゃっとかき回して部屋を出た。

その髪に昨日はしてた煙草の匂いが無い事に、森は少しほっとしていた。
───ああいう時のヤツの顔は見たくないもんだ。いくら綺麗でもな。
それに･･･
北見がああいう顔をする時、決まってもう一人落ち込んだ表情になるヤツがいる。
まったく、いくら気が合うからってそこまで付き合わなくてもいいだろうに思う。ま、そこがあいつの、岩永の可愛いとこなんだが。
あの感受性は医者に向いてるんだか、向いてないんだか、難しいところだ。
医者は患者さんの身体だけ診てればいいってもんじゃあない。患者さんの気持ちになって考えることは大事な、いやむしろ必要な事だと信じている。
だが、それは度を超すと大きなリスクを背負う羽目になる。
親しくなった患者が自分の力及ばずに亡くなる。そんなダメージが度重なって耐えきれずに医者を辞めていくヤツは少なくない。
その点、あの２人はよく保ってると思う。
北見は強い精神力だけじゃない。あの院長がいる。むしろあの人に救われてる部分は大だ。
岩永の場合は直接患者さんを担当する立場じゃないことが幸いしている。あいつは患者さんと触れ合う機会が少ないことが不満なようだが。
解ってんのかねぇ、あいつ、自分の性格が。ただでさえ麻酔科医なんて神経使う仕事なのに、あの性格で患者さんと親しくなって死なれてみろ、絶対身が保たねぇぞ。
そのダメージを受けなくてすんでるのに、仲がいいからって他人の心配をして落ち込んでりゃ世話ねぇや。
なんか妙にむかついてきた。こんな気分で回診に行くのはよろしくない。

森は気分を落ち着けようと、屋上へ出た。
── そこにむかつきの元がいるなんて思いもせずに。

 

既に私服に着替えた岩永がそこにいた
手摺りに肘をついて金網越しの中庭を見るともないような視線で見下ろしている。
「なんだぁ。あんた、もう上がりじゃなかったっけ。」
驚いて振り向いた岩永は、森の顔を見て今度はちょっと気まずそうな顔をした。
なんだよ。そりゃあ、俺はたまにちょっかい出してからかったりするけど、その顔はねぇだろ。
もっとも、岩永にしてみれば森が嫌だった訳ではなく、湿気た表情を見られたのが気まずかったようだ。
「えぇ、もう帰るところですよ。」
そう言いながらも、森が来てすぐに帰ってしまうのは逃げるようで失礼だと思ったのか、まだ外を見てる。
こいつも律義なヤツだ、と苦笑が漏れる。
だが、その表情はまだ僅かに沈んだままだ。
もしかして昨日の北見の憂鬱をまだ引きずってんのか？
森も同じように手摺りに肘をついて、大仰に俯き加減の顔を覗き込んでみせた。
ますます気まずそうに顔を逸らされて、つい意地悪心が頭を擡げる。
「目が赤いぞ。」
「･･･っ！」
やっとこっちを向いた。
「別に･･････泣いてた訳じゃ無いですよ。」
どうやらそれはホントのようだが。

少しの沈黙の後、岩永の方が口を開いた。
「森先生は、どう･･･どうしてます？」
「ん？」
「患者さんを亡くされた時なんかに。」
やはり、それが原因なのか。
「そうだなぁ。“癒し系”の可愛い子ちゃんを見つけて慰めてもらうかな。」
半分冗談、半分本気──であることは向こうも解ってる。
森のキャラクターは病院中に周知徹底されてる。
つまり、岩永には生憎だが、性格の違う彼の参考には全くなりそうもない。
「あんたはどうなんだ？」
「僕は･･･そんなに親しくなる機会自体、少ないですから。」
岩永が術前診察以外にもそこまでやることないのにというくらいせっせと患者さんのところに通って話しかけたりしてる事は森も知っていた。
他人の気落ちにこれだけ引きずられてるくせに･･･そう考えると、またむかついてくる。
「あんたなぁ、あんまり他人の痛みまでしょい込むな。分相応ってもんがあるだろ。」
ちょっときつい言い方をしたとは思った･･････
案の定、図星を指されて少しむっとしたようだったが。
何か言い返すかと思った森の予想を裏切って不意に、ほぅっと一つ大きな溜息をつくと
「分不相応･･･ですか。」
力無く微笑う。
あー、もう！そんな顔するなよ。
俺が苛めたことになんのかぁ、これ？

「もう、帰ります。失礼します。」
会釈して踵を返した岩永をこのまま帰す気になれなかった。
軽い罪悪感、うらはらの苛立ち。元凶は目の前。
森は去りかけた腕を捉え引き戻した。
襟元を掴んだ勢いで岩永の背が後ろの手摺りにぶつかる。
「人の心配すんなたぁ言わねぇけどよぉ、自分が潰れちまっちゃあどーしようもねぇだろうがっ。」
つい荒げた自分の声にさえ腹が立って。

何やってんだ、俺──。

岩永は面喰らった顔で森をじっと見ている。
何か言いたげで、だが、漸く口にしたのはたった一言。
「･･････すみません。」

「ばかやろ･･･。」
一気に力が抜けてしまった。
シャツを掴んだまま、岩永の胸に頭を押しつける。
服の上から速い鼓動が伝わる。
「あの･･･」
狼狽えた声が頭上を彷徨って。
森は大きく息を吐いて、岩永の身体を解放した。
肩を押して「行けよ。」と促したが、おずおずと行きかけてふと足が止まる。
「森先生。･･･あの、ご心配かけて･･･」

──解ってたはずだよな、こいつはこんなヤツだって。
そうでなきゃ、こいつじゃなくなっちまう。このお人好し野郎は。
「悪かったな。」
手を挙げて、もう行けと、もう一度促した。
岩永は黙って頭を下げ、階下への階段を下りて行った。

──まったく。何やってんだ、俺は。──
他人の心配ばかりしてるヤツに苛ついて、逆にそいつに心配かけてるんじゃ。
世話ねぇのは、俺の方かよ。

あーぁ、似合わないこたぁするもんじゃねぇな。

回診の時間は迫っている。
結局、この自己嫌悪を押し隠したまま、森は屋上を去る羽目になった。