交代の引継事務を終えた岩永がロッカールームの扉を開けた。
今日は久しぶりにシフトの予定通り帰れそうだ。ほっと緊張が弛んだ次の瞬間･･･
「よぉ、もう帰るのか。」
突然、背後から明るい声がかかる。
「あ･･･森先生。」
「俺も今、上がりなんだよ。」
「はぁ。」
「珍しいよな、こんな時間に一緒になるなんてなぁ。」
「えぇ。」
いつでも誰にでも気さくな森だが、なぜだか今日はいつにもましてご機嫌で話しかけてくる。
岩永は小さく溜息をついた。
森といると、陽気で押しの強い彼のペースに巻き込まれて、いつも調子を狂わされてしまうような気がする。
別に嫌いなわけではない。むしろ彼のようなタイプは羨ましいくらいなのだが。

「どうだ、ちょっと飲んでかねぇか。」
またか、と思った。
「森先生もですか･･･。」
「何だぁ？森先生“も”ってぇのは。」
「最近、飲み会だの何だのって声かけてくる先生方やナースが多くて。」
「そりゃまた。急に人気者になったもんだな。」
「違いますよ。」
面白がっている森に困ったように、岩永は頭を掻いた。
「この間、“北見先生が医者を志したキッカケ”を聞いたなんて話をうっかりしたら、みんなやたらとその話を知りたがって。僕だって、酒の席でちょっとそんな話をしたってだけで、それほど詳しく知ってる訳じゃないのに･･･。」
「ふーん。」
確かに、あの北見のプライベートな過去の話なら俺だって興味を引かないわけにはいかないが、それにしても。
何とか聞き出そうとする連中相手に困惑する岩永を想像して、森は笑いが込み上げた。
上着を羽織ってロッカーの戸を閉めると
「まぁ、俺だったらそーゆーことはあいつに直接あたるさ。そうだ、今度はそいつを口実にして奴を誘うか。」
「みんなそうしてくれるといいんですけどね。」
半ば呆れ顔で岩永は受け流した。
そんな事が出来るのは、森くらいしかいないだろう──院長を除けば。
「と、いうことで。」にやりと笑った森は、
「俺が今日誘ったのは“北見の情報源”じゃなくて、“お人好しの麻酔科医”のあんたなんだから、問題無いよな。」
「は？」
ジャケットを手にした岩永がそれを着る間も与えずに、森は岩永の肩を抱え込むと
「おし、行こうぜ。」
強引に廊下を引きずっていく。
「いや、あの。僕は今日は早く帰ろうと･･･」
思ってたんですけど───という抗議は当然の如く無視されて。
「よっ、ご苦労さん。お先！」
と、上機嫌でナース達に挨拶して去っていく森と無理矢理引っ張っていかれる岩永を見送って、彼女たちの間では「今夜のうちに岩永が無事に帰れるかどうか」で夜食のドーナッツが賭けられた。

勿論、賭け率は８：２で『帰れない』。