「でーっ！今日も暑っちいスねー！！」
だらしなく舌を出した輝が、朝の挨拶もそこそこに音を上げた。
梅雨が明けた途端、連日うだるような暑さが続いている。
自分のぼろアパートに比べれば、空調の効いた病院内は天国のようなものだが、遅刻ギリギリで駆け込んだ汗はなかなか引かない。
席に着くと、団扇を片手に引き出しを開け、クッキーの箱を取り出した。寝坊して食べ損ねた朝食の代わりだ。
「輝先生、またそれで朝ご飯？もうちょっとしっかり食べたら。」
「へへ・・・分かっちゃいるんですけどね。」
諦め気味の岩永の苦言を照れ笑いで聞きながら、クッキーを口へ放り込んだ。

「あーっ！院長、何食ってんですか？」
「何って、昼メシに決まってんじゃねぇか。」
御座なりなノックで院長室のドアを開けると、院長殿はソファで昼食の真っ最中。
「い〜なぁ、鰻じゃないスか。美味そー。」
「だって今日は土用の丑の日だも〜ん。」
ほ〜れほれ、と羨ましそうに覗き込む輝を煽るように、見せびらかす。
口を尖らした輝はテーブルの上にもう一つの重箱を見つけた。
「あれ、こっちは・・・？」
「あぁ、北見の分。箸付ける寸前に何か緊急で呼び出し喰らっちまってよ。」
「へぇ、んじゃ俺が片付けてあげましょうかぁ。」
冗談半分、本気半分でちょいと蓋を持ち上げる。
「ばぁか。あいつ怒らせる気か？」
食いモンの恨みは怖ぇんだぞぉ。ぱしっと手を弾かれて渋々引っ込めた。
「おら、いつまでもうろうろしてねぇで。書類置いたら早く行けよ。」
「はぁい！」
失礼しまっす！と自棄くそ気味に挨拶して、院長室を後にした。

輝が再び院長室をノックしたのは暫く経ってからだった。
「院長、片岡先生がさっきの書類至急目を通してって・・・・・・あれ？」
人気の無い室内に、甘いタレのいい匂いがまだ漂っている。
「ちぇっ、いいなぁ。」
そう言えば腹が減ったな。こっちは鰻重どころか昼メシもまだだ。
恨めしそうに横目で見た輝がふと、重箱の蓋を開けてみた。
空の箱は院長のだとして、北見の分は・・・・・・手付かずのままだ。
すっかり冷めているが美味しそうな匂いは未だ健在。
「あれからまだ戻ってないのか。」
不意に輝の顔がニカッと緩んだ。
「いつ戻るか分からないのに、放ったらかしとくのも勿体ないよなぁ。」
勝手な理屈を唱えながら白木の割り箸を手に取って ぱきっと小気味よく割った。

＊　＊　＊　＊　＊

「いやぁ、久々に見ちゃったな。北見ちゃんが手こずるの。」
からかい口調の安田の後に続いて、不機嫌そうな北見が院長室に入ってくる。
「俺だって万能じゃないんですから。」
「何言ってんの。さすがじゃねぇか。大事にならなくて良かったよな。」
ソファにどっかと腰を下ろすと、「ほれ、早いとこ食っちまいな」とテーブルの上の重箱を顎で指した。
北見は向かいに座ってほっと一息つき、黒塗りの箱に手を掛けたが。
「院長・・・」
「んあ？」
「いくら随分待たせたからって、こういう悪戯は止めてくれませんか。」
呆れた様子でじろりと安田を睨んだ。
「なに？何のことよ？」
北見が持ち上げた蓋の中身を安田が怪訝そうに覗き込む。
「へっ？空っぽ？」
重箱の中身はきれいさっぱり片付けられてしまっていた。
睨みつける北見に、安田は慌てて両手を振った。
「じょ、冗談！俺じゃねぇぜ。」
「あなた以外誰がいるんですか、院長室に置いてる弁当を勝手に食う奴が！？」
ひぇ〜、北見ちゃん本気で怒ってるよ〜。
怒った時の北見の怖さはよーく分かっている安田が必死で否定する。
「いくら何でも、俺だって命は惜し・・・・・・あぁっ！！」
「・・・？」
「輝だっ！絶対あいつ！さっき思いっきり食いたそうに覗いてたもんなぁ。」
「なっ！てるぅ〜？！」
食い物自体のことであれこれ拘る気はさらさらないが、この仕事は食べられる時に食べておかないと、いつ緊急事態が起きてメシ抜きになるか分からない仕事だ。
しかも、これでも一応は楽しみにしていた院長室での食事。
それなのに、人の貴重な食事時間を──っ！！
「あンの・バカヤロー・・・」
拳を握り締めて怒りに肩を震わせる北見を見て、安田はそぉっと席を離れた。
──俺ぁ知〜らねぇっと。

＊　＊　＊　＊　＊

「へへっ、あー美味かった♪」
鰻重なんて久し振りだし、しかもタダ。さぁこれで午後の回診も張り切って出来るぞぉ。
輝はご機嫌な足どりで担当の病室へ向かった。

「おっ輝先生。待ってたんだよ。」
恰幅のいい高橋さんがこれまた上機嫌で輝を出迎えた。
仕事中に足を怪我した彼は豪気な大工の棟梁で、いつも元気のいい輝をことのほか気に入っている。
「どうしたんスかぁ？何かいい事でもあったんですか？」
「おぅ。今日は娘夫婦が見舞いに来てくれてよ。見舞いは何がいいって訊くもんだから、俺の好物頼んどいたんだよ。」
ほれ、と見せたのは小振りの折り詰めに入った鰻重。
「輝先生の分も頼んどいたから１コやるよ。」
「へっ？」
「安月給だし忙しいし、鰻なんか食いに行けやしねぇだろ。今ここで食ってけよ。北見先生には黙っててやっからさ。」
「い、いや・・・」
たった今食べてきたなんて、タイミングを逃すとなかなか言い辛い。
「いいじゃん、食っちゃえよ。」「そうそう、滅多にないんだろ鰻重食うチャンスなんて。」
周りの若い患者達も年が近い気安さで、早弁を唆すようなノリだ。
「んじゃあ・・・折角だから頂きますよ。」
ま、いいか。こんなこと、それこそ滅多にないんだしラッキーってことで。
割り箸を受け取ると、折り詰めの中身をあっという間に掻き込んだ。

「こんちは、大木さん。調子いいみたいっスね。」
「はい、お陰様で。」
輝の笑顔に、上品そうな老婦人がにっこり笑い返す。
「あ、ちょっと。輝先生・・・」
回診を終えて立ち去りかけた輝を彼女が引き留めた。
小首を傾げる輝にニコニコしながら包みを開いて取り出したものは、黒塗りの弁当箱。
──えっ？ま・さか・・・
「あのね、今日は土用の丑の日でしょ。」
「はぁ・・・」
「輝先生、いつもお忙しくてお食事が不規則でいらっしゃるでしょ。」
「え、えぇ・・・」
「それでね、召し上がって頂こうと思いましてね。」
「いや、そのぉ・・・こういうことは・・・」
戸惑う輝をよそに、柔らかい物言いながらマイペースで箸を取り出し、蓋を開け。
「さ、どうぞ。」
再びにっこりと菩薩様のような微笑みで差し出されて。
この微笑みに抗するのは、輝にはちょっと不可能だった。

すっかり重くなった腹を撫でつつ廊下に出た輝は、深い溜息をついた。
『安月給』も『忙しくてろくな食生活をしてない』も確かに日頃よく口にしてたとはいえ、ここまで患者さん達に浸透してるとはなぁ。
皆の気遣いは嬉しいけど、やっぱりどこか情けないものがある。
（ふん、俺だってそのうち・・・）
気を取り直して医局へ戻ろうとする輝を、綾乃が呼び止めた。
「あ、輝先生。ちょっと。」
「何ですか？」
「これ、よかったら持って帰って下さい。」
紙袋から半分取り出して見せたのは、レトルトパック入りの鰻の蒲焼き。
「へっ？」
「実家の母から幾つか送ってきたんで、一つどうぞ。」
「・・・・・・」
「あの、お嫌いでした、鰻？」
「い、いやっ。好きです、大好きですっ！」
「じゃ、休憩室の冷蔵庫に入れときますから。」
忘れずに持って帰って下さいね、と念を押す綾乃の言葉も、今の輝には半分上の空である。

──北見の呪いか、鰻の逆襲か・・・？

こんな風になるなら、北見の昼メシを盗み食いすることなかったのになぁ。
ここまでくると、さすがの輝も正直言って気が引けてくる。
（きたみぃ・・・・・・ゴメン☆）
近年稀にみる素直さで、輝は心の底から謝った。

その後自分を待ち受けているのが減俸かボーナスカットか、はたまた有休没収か・・・・・・輝はまだ知る由もなかった。