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ｗｈｉｔｅ ｏｕｔ 灰色の空を見上げて、絶え間なく落ちてくる雪をぼんやりと見ている。
その横顔が妙に不安を誘い、目が離せない。 俺の気分を察したかのように、振り返ってあいつは穏やかに笑った。 ───どうしたんですか？僕は大丈夫ですよ。 だが、そう言いたそうな笑顔はひどく儚げに見えて。 不安を一層掻き立てるばかりで。 早く掴まえておかなくては。何処かへ消えてしまう前に。 そう思うのに、俺は手を伸ばせないでいる。その腕を掴んだら途端に、そのまま消えてしまいそうな奇妙な感覚。 一歩も動けずに立ち尽くす俺を見て、あいつはまた笑う。 ───どうしたんですか？あなたらしくない。 「ばぁか！何やってんだよ、この寒空にっ。」
降り積もった雪をきしきしと踏み鳴らしながら、森が大股で中庭に立つ岩永に歩み寄る。 腕を掴むと引きずるようにひさしの下に連れ戻した。 「こんなんで風邪でも引いたら様になんねぇだろうが。」 頭に残る雪を払うには明らかに不必要なほどの勢いで盛大に髪を掻き回されて、岩永は恥ずかしそうに森を見上げて口籠もる。 「あの････すみません。こんなに雪が積もったの久し振りだし、つい・・・」 「そんな犬ころみたいな反応は輝先生にでも任せときゃいいんだよ。」 森の言葉にぷっと吹き出すと、口を押さえて止まらない笑いを堪えた。 「また輝先生が怒りますよ。」 可笑しそうに肩を揺らす様子はいつもと何も変わりない。 森はふぅっと小さく溜め息をついた。 そうさ、あれは気のせいだ。久し振りの雪景色が見せた単なる錯覚だ、と。 ＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ここ数日降り続いた雪は今日になっても降りやまず、日頃は喧噪の街並みを一面の銀世界へと一変させていた。 「お疲れさん。」
医局に戻ってきた一団に、森が労いの言葉をかけた。 予後が心配されていた患者が、案の定急変したのが昼過ぎ。 ＩＣＵからの知らせに担当医だった北見が飛び出し、手の空いた者数名が後に続く。 全てが終わったのは、日勤の医師達の大半が帰り終えた頃だった。 「だめだったか･･･？」 表情を見れば一目で分かった。 クールとかポーカーフェイスとか評されるその表情は、馴染んだ人間からすれば実は結構分かり易い。 意外に簡単に赤くなったり青くなったり。仏頂面は照れ隠しだったり。 そして、無表情は悲しみと自責の裏返し。 「えぇ。」 短い返事にほんの僅か悔しさを滲ませただけで、北見は何事もなかったように席に着いた。 「あ・・と、岩永先生は？麻酔科医局の方か？」 あいつは今夜は夜勤じゃないし、ＩＣＵにも他にもう患者はいない筈。 姿を見せない岩永を訝しむ森に、北見が開きかけたノートパソコンのモニターから視線を上げた。 「あぁ、すぐ帰るように言ったんですよ。あいつ、このところずっと詰めっ放しだったんで。」 残念でしたね、とちょっと意地悪な笑みが返る。 「ふーん、素直に帰ったんだ。」 「部長命令ですから。」 「ふ〜ん･･･」 するりと机の脇に寄ってきた影に、北見はモニターに戻していた視線を再び上げた。 「で、あんたは？」 「え？」 「あんたは何日帰ってない？」 「･･････」 偶然とはいえ、このところ重大事故が続いた。 その上にこの大雪で、外来者は重傷、軽傷を含め跳ね上がった。 更に急激な天候の変化は、もともと不安定な患者の容態を悪化させる要因ともなる。 ここ数日、帰る機を逸しているのは確かだが。 「ちゃんと仮眠は取ってます。」 「何時間？」 「･･････」 森から逸らした視線はモニターにも戻らずそっぽを向く格好となった。 こんな時に限って院長は会議で出張───いや、本当は今日には戻る筈だったのだが、この雪で飛行機が欠航し、帰るのは明日になるとの連絡が入っていた。 「帰りが待ち遠しいのは分からんでもないがなぁ。」 「そんなことでは･･･」 「寝不足の医者に命を預ける患者さんも気の毒になぁ。ま、バレなきゃいいか。」 北見は諦めたようにふーっと長い息をついた。 「これが終わったら仮眠を取りますよ。」 「そうか。」 森は満足気な表情で大袈裟に頷くと、「さぁて、俺も帰るか。」とドアに向かった。 が、ドアの手前で立ち止まり、席にいた輝を振り返る。 「そうだ。ちゃんと言うこと聞いたかどうか後で教えてくれよな、輝センセ！」 日頃太刀打ちできない我が指導医がやり込められるのを笑いを噛み殺して聞いていた輝が、最敬礼で元気良く答えた。 「ウィーッス！任しといて下さい。」 通用口を出ると途端に息が白く凍る。 小降りになったとはいえ、まだちらつくものを目で追って森は空を見上げた。 よくぞ降ったもんだ。こんなに積もったのは何年振りだろうか。 『“何年”じゃないですよ。この時期にこんなに積もったのは８２年振りだそうですから。』 そういや誰かがＴＶのお天気キャスターの受け売りを披露してたな。 職員専用の駐車場には意外に多くの車が並んでいた。 出勤に乗ってきたものの不慣れな大雪での運転を避けてか、置いて帰った者がいるらしい。 （あいつも今日はバスで帰ったのかな。） 定位置でタイヤを半ば雪に埋もれさせた黒のセダンを一瞥して、愛車のドアに手を掛けたその時。 「あンの、ばか･･･」 ふと覗いたサイドミラーの端に小さく映った影に気付いた。 舌打ちして急いでドアを開け、エンジンを掛けた。が、エアコンのスイッチを入れると、そのまま降りてドアを閉めた。 「まぁだ懲りねぇようだな、あんた。」 足音を忍ばせたわけでもないのに、近付いてきた気配に全く気付かなかったらしい。 よく響く森の声に、脱力していた肩が一瞬びくりと跳ね上がった。 「あ････森先生･･･」 「何やってんだ、こんな処で？」 もちろん、こんな柱の陰で壁に凭れてぼーっと空を見上げていた岩永が何かやっていた筈もなく。 「別に･････もう帰るところです。」 ばつの悪そうな顔で、軽く頭を下げて森の横を擦り抜けようとする。 小言の一つも言ってやろうと、腕を掴んで振り向かせた顔に、しかし森は言うつもりの言葉を見失った。 雪の色を映したような血の気のない頬。冷え切った唇から漏れる息は白くなることはない。 一体いつから此処に立ち尽くしていたのか。そして、森が気付かなければ一体いつまで此処にいるつもりだったのか。 「････何か･･？」 黙って自分を見ている森を怪訝そうに見上げて、岩永が訊いた。 「いや。･･･もう帰るんだよな。」 「えぇ。」 「よっしゃ。じゃ、帰ろうぜ。」 岩永の肩を強引に抱き抱えると、自分の車へと引きずって行く。 「えっ？あ、あのっ！僕の車、あっちに････」 抗議の言葉はいつもと同じく無視されたまま。岩永は森の車の助手席に放り込まれた。 「何するんですか、もう･･･」 なおも言いかけて、車内が暖められている事に気付く。 「なんだぁ。これからあの車掘り出すの、骨だぞ。」 「けど･･･」 「今夜、うちに泊まれ。」 「えっ？！」 返事を待たずに、車は走り出した。 岩永はずっと押し黙っていた。 怒ってるといった様子ではない。ただぼんやりと流れる光を眺めているだけ。 森には分かっていた───泣いていたのだと。 岩永がこんな状態になるのは決まって、長い黒髪に紫煙の香りが纏わりつく時。この数日はそれが途切れる暇なかった。 どうしてか、こいつだけがこうも敏感に北見の感情を読み取りシンクロする。 そして誰にも気付かれないように気を遣いながら、 泣くことを自分に許さない不器用なあいつの代わりに、 同じように不器用なこいつが泣く。 ＊ ＊ ＊ ＊ ＊ 「あの････すみませんでした、お風呂まで。」 タオルを肩に居間へ戻った岩永の姿に、森は口端を緩めた。 借りた森の寝間着は、袖とズボンの裾を折り返して長さは調節出来ても幅はどうしようもない。細身の岩永には些かサイズが大き過ぎた。 「そんなに、可笑しいですか？」 「そうでもないさ。」 座れよ、とソファへ促して、コーヒーカップをその前に置いた。 カーテンの隙間から僅かに覗き見える庭は、居間から漏れる灯りを反射して白く薄明るくさえ感じた。 森は自分の分だけ用意したグラスを傾けている。 からり───と、時折 氷の音。 会話のない静かな時間が淡々と流れた。 それは岩永にとって手持ち無沙汰な一方、何故か心地よいものでもあったが。 「どうして････連れて来たんですか？」 酒に付き合わすでなし、話をするでなし。ヒトのことを黙って眺めているだけの森の意図が、岩永には分からなかった。 「寒そうだったから。」 「は？」 「俺んちの方があんたんちより近かったし。」 「そんな････仔犬拾ってくるような言い方･･･」 「違うのか？」 くすくす笑いながらグラスに口を付ける。 俯いた岩永の頬が赤く染まった。 「雪が嫌いなのか？」 「え･･･？」 「随分辛そうに見てないか。」 「そんなこと･････ありませんよ。」 返した笑みがぎこちなかったと自分でも判っていた。 「あ〜あ。どいつもこいつも全く！」 森が大仰な溜息をついて頭を掻いた。 「いい年して泣き喚けたぁ言わんがな。辛い時は辛い、寒い時は寒いってたまには素直に言ってみねぇか。」 不躾な視線が真っ直ぐ覗き込んでくる。逃げるように、岩永は目を逸らして立ち上がった。カーテンに手を掛け、隙間を拡げて外を見た。 漸く降り止んだ雪が音を吸収したように、動くもののない庭は物音一つしない。 不意に背後から包み込むような温もりが静かに抱き竦めてきた。
が、いつもなら真っ赤になって逃げ出す筈なのに、逃げも振り返りさえもしない。 だいぶ参ってるようだ、と森は心の中で溜息をついた。 柔らかく抱き寄せると、細い身体は何の抵抗もなくその腕の中に収まった。 「僕、嫌いじゃないですよ････雪。」 岩永は森の腕に手を置いて、ぽつりと言った。 「そうなのか。」 「雪は優しいから･･･」 森は何も言わず、途切れた言葉の先を促すように髪を撫でた。 「真っ白で綺麗で･･････触れると冷たく感じるけど。でも、溶けるたら生命を救う水になる･･･」 語る瞳は夢見てるようで、白い景色の向こうに誰を想ってるんだか。 「辛くなんかないですよ。」 振り向いて見上げてくる笑顔は言葉を裏切っていたけれど。 「俺も好きだぜ。」 応えるように笑い返した。 「きっと、みんなそうさ。」 「そうですね。きっと、みんな････」 庭に戻した眼差しは淋しさを隠しきれぬまま揺らぐ。 岩永の指が、触れていた森の手を強く握り締めてきた。 「どうした？」 顔を覗き込むと、伏し目がちの目が更に脇へ逃げた。 「････やっぱり･･･寒いかな････････少しだけ。」 それが精一杯のサインだと分かって、森は込み上げる笑みを堪えきれなかった。 「そっか。じゃあ──」 まわした腕に力を込めて不器用な肩を抱き締め、耳元で囁く。 「あっためてやろうか。ウチに来て風邪なんか引かせられんからな。」 「ばっ･･･！」 一瞬逃げ出しかけた身体は、しっかりと抱き竦める腕を振り切れず、すぐに大人しくなった。 「･･････ばか、言わないで・・・下さい。」 困ったように俯いた口元がぼそりと呟くのを聞いて、森は真っ赤に染まっている耳の後ろに口付けた。 |