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優しい雨
梅雨の晴れ間に久しぶりの青空が覗いた。
このところの雨が嘘のような空の青さに艶やかな新緑が映える。
午後の陽射しの明るさに惹かれて窓の外に目をやると、見馴れた頭がちょろちょろと行き来している。
（？・・・輝先生？）
窓から顔を出すと、「何やってるの？」と訊くより早く、向こうが気付いて駆け寄ってきた。
「あーっ、岩永先生。ちょうどいいや。ちょっとこれ持ってて。」
「えっ？な、何？」
窓越しに手を差し出され、思わず受け取ってしまった。
手のひらの上で、ふわふわした茶色いモノがころりと転がる。
「・・・雛？・・・すずめ？」
「すぐ戻りますからーっ！」
言うと同時に駆け出した輝の姿が、あっという間に建物の角を曲がって消えた。
（ど、どうするの、これ？）
手の中でか細くぴーぴー鳴いている雛と輝の消えた方向を交互に見比べて、岩永は廊下に立ち尽くした。
「昨夜は雨ひどかったけど、風も強かったでしょ。ほら、あそこ。」
借りてきた梯子を通用口のひさしに立て掛けながら、輝が上の方を指差す。
「へぇ、あんなとこに巣が出来てたんだ。」
見上げていた岩永は、梯子の途中まで登った輝に雛を手渡した。
「気を付けてよ、輝先生。」
何にもない廊下でさえちょくちょく転んで皆から不思議がられている輝のことだ。どうにも危なっかしくて不安が先に立つ。
「大丈夫っスよ。」
輝が巣の中を覗き込むと、他に三羽、目も開いてない雛がころころとじゃれ合っている。
手の中の小さな命をその間にそぉっと置いた。
「へへっ、もう落っこちんなよ。」
無事に目的を果たした輝は梯子を下りながら、岩永に向かって得意気にＶサインを見せた。
が、その油断がいけなかったのか。案の定、片足が梯子を外れバランスを崩した。
「ぅわぁっ！」
「危なっ・・・！」
咄嗟に手を伸ばした岩永の上に輝の身体がどさりと落ちた。
「痛ぁ・・・」
「あ、す・すんません。」
輝が自分のクッションになった岩永の上から慌てて降りようと手近なものを掴んだその時、あっと小さく叫んだ岩永に肩を掴んで引っ張られた。
岩永の身体が覆い被さってきた次の瞬間。
ガターン──！
大きな音と重い衝撃が続いた。
輝には一体何が起きたのか解らなかった。
ともかく岩永に退いてもらおうと声を掛けて、反応が無いことに気付く。
焦って岩永の身体の下から這い出すと、二人の身体の上に梯子が倒れ落ちていた。
げっ！どーしよう。頭でも打ったのかな。
「い、岩永先生・・・先生っ！」
急いで梯子を退かして大声で呼びかけると、岩永は顔を顰めながら薄目を開けた。
「いっ・・・たぁ・・・・・・」
右手で頭を押さえて大きく息をつく。
その様子にひとまずホッとした輝の後ろから声がした。
「お前さん達、まぁた何やってんだ？すごい音がしたぞ。」
通用口を開けて森が立っていた。
「す、すんません。俺のせいで・・・」
「今度は何やらかしたんだ？輝先生。」
一目見渡して大体の状況は見当がついた森は、にやにやして岩永が立ち上がるのに手を貸しながら、それでも意地悪く訊く。
「いや、その・・・そ、それより、岩永先生の手当てしなくちゃ。」
「大丈夫だよ。大したことない。」
「でも、血ぃ出てるぜ。」
森がほれっと、立ち上がる時に掴んだままの岩永の右手をひっくり返して手のひらを示す。
多くはないが、はっきりと絵の具を擦ったような赤い色。おそらくは頭の傷を押さえた時に付いた血だ。
輝が真っ青になって慌てた。
「待ってて！う、動いちゃだめっスよ。今ストレッチャー持ってきますからっ！」
言うが早いか、全力疾走で病棟に駆け込んで廊下を消えていった。
「ちょ、ちょっと・・・」
「あ〜あ、また遠藤主任にどやされるぜ、ありゃあ。」
「それはいいんですけど・・・」
「ん？」
「いい加減・・・手、離して下さい。」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「輝先生、ちょっとオーバーだよ、これ。」
ただでさえ不器用な上に、責任を感じてか念入りにぐるぐる巻きにされた包帯。
頭部ＣＴまで撮られて。何事かと一躍皆の注目の的である。
「いいんですよ。用心に越したこと無いんですから。」
やる事すべてをやって安心した輝からやっと解放されたのは夕方近かった。
漸く落ち着いてソファーに座って、外が暗いのが時刻のせいばかりじゃないことに気付いた。
外に目をやって初めて気付くくらいの静かな雨だった。
「また、雨降ってきちゃったね。」
特に返事を期待した訳じゃなかったが、輝が何のリアクションもなくおとなしすぎるのが気になって振り返った。
「あの・・・痛みますか？」
大きな目で申し訳なさそうにじっと見ている。
「大丈夫だよ。」
笑って答えたが、輝の様子がいつもと違う気がした。
「どうかしたの？」
輝は岩永の問いに答えず、俯いてすとんと隣に座った。
もともと幼い顔が、意気消沈して更に子供っぽく見える。
｢まだ気にしてるの？輝先生らしくないなぁ。｣
また笑いかける岩永の顔を見上げた。
優しくてあったかくてホッとする笑顔。
（父さんが患者さんに見せた笑顔ってのもこんなだったのかな・・・）
──雨は好きじゃない。
あの事故の時、父さんが死んだ時も雨が降ってた。
自分を庇うようにして冷たくなっていた身体。
さっきの岩永の重みと雨の音が重なって、あの時の感覚を鮮明に思い出させる。
不意に輝の腕が岩永の首にしがみついてきた。
子供じみた感傷だと分かっていても、そうしないと、また自分だけ残して何処かへ消えてしまいそうな不安。
その不安を打ち消すように、温もりを繋ぎ止めるかのように。
腕に力を込め、頭を擦り寄せてくる。
岩永には理由は解らなかった。多分今日の事じゃない何かが輝の気持ちを憂鬱にしているのだろうという以外は。
初めて見る輝の表情は、いつものお陽様のような明るさとはあまりにかけ離れていて。
何も訊かず、ただ黙って自分の頬に触る柔らかい髪に手を置いた。
輝の耳に浸み入るような静かな雨音だけが微かに聞こえる。
髪を滑る指の感触がとても暖かく感じて。
──雨は嫌いだけど・・・・・・こんな優しい雨なら少しは好きになれるかな。
「輝先生。上がる時間でしょ。今日はもう帰ったら。」
岩永は子供を宥めるように背中をさすって促した。
「あ。そんじゃあ俺、先生送っていきます。」
漸く岩永から離れた輝が立ち上がる。
「でも、僕は今日当直だから。」
「えー？ダメですよ。じゃあ俺が今夜替わりますよ。」
「いいよ。もう心配ないって・・・」
「でも・・・」
「そうそう、俺も付いてるから心配ないって。」
いつからいたのか、森が入口のドアに凭れて立っている。
「俺も今夜当直だからさ。」
「えー！それじゃあ余計危ないじゃん。森先生と一緒じゃ。」
（へ？）
「どういう意味だよ。俺ぁケガ人襲ったりしねぇぞ。」
「解んないスよ。あ、じゃあ、ケガしてなきゃ襲うんだぁ。」
（ちょ、ちょっと・・・？）
話が横道に逸れだして戸惑う岩永を無視して二人の掛け合いは続く。
「そりゃ、勿論。チャンスは有効に──」
「もう！いい加減にして下さい！！」
頭を抱えた岩永が割って入った。
「森先生、冗談はそのくらいにして下さい。輝先生も。」
小さい子に言い聞かせるように説得する。
「この人の言うことあんまり本気にしないで。本当にもう心配ないから。ねっ。」
輝は余裕ありげに笑う森をちらりと見上げて、
「ま、今日のところは信用するけど。・・・あてにならないんだよなぁ。」
不服そうに口を尖らせた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雨の夜の夜勤は、事故が起きやすいせいか救急車の対応などで慌ただしいことが多いのだが、今夜は不思議なくらい静かな時間が続く。
書類の整理などで時間を潰した岩永は、手持ち無沙汰になってぼんやりと窓の外を見ていた。
相変わらず、聞こえるか聞こえないかの静かな雨音。
「痛むのか？」
「え？」
新聞から目を上げた森が頭を指差している。
「いえ。全然。」
輝からも訊かれた同じ言葉。
「やっぱり大袈裟ですよね、この包帯。」
苦笑して立ち上がり、窓際へ歩み寄る。
ほんの少し窓を開けると、湿り気を含んだ新鮮な空気が滑り込んできて､ほっと小さく息をつく。
「よく降るよな。」
いつの間にかすぐ後ろに立っている森にどきりとして、思わず身体を避けた。
いつもと同じその反応に今度は森が苦笑いを浮かべ、少し離れて立つ。
「そうですね。」
岩永は目を逸らしたまま答えた。悪いとは思っていても、不意に側に寄られるとつい反射的に身を引いてしまう。別に嫌いな訳じゃないのに。
「あの・・・」
「ん？」
「さっきはありがとうございます。輝先生、元気になったみたいで。」
ただ傍にいるしか出来なかった自分が少し情けなく思えた。
「別に。ほんとの事言っただけだし。」
「は？」
「ケガしてなきゃ、いいチャンスだったのにな。」
片目を瞑ってにやりと笑う。
「またそんなこと言って。輝先生が真に受けますよ。」
岩永が笑って返すと、森は黙って肩を竦めて自分の席に戻った。
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