「よぉ、そろそろお開きにするかぁ。」
「あ･･はぁい。」

森の声に、向かいの席の岩永が頷いた。
酔い具合が分かる、些か気の抜けた返事。
アルコールでほんのり染まった頬でにっこり微笑む姿には、本当なら『してやったり』とほくそ笑むところだ。
だがしかし、店員に精算を頼みながら、森は目の前の光景に軽く溜息をついた。
「こんな筈じゃなかったんだけどなぁ････」

帰り支度を終えてたまたま立ち寄ったナースステーションで搗ち合ったのを良いことに、森が誘ったのは岩永一人のつもりだったのだが。
そんな場面を目敏く見つけられたのが運の尽き。
「あー俺ももう帰るトコなんスよ。一緒にいいでしょ、ねっ。」
結局、輝の乱入を許す羽目になってしまった。

と言って、酒の席がつまらなかった訳じゃない。
からかうにはお誂え向きのカモが二人も揃えば、それなりに楽しく盛り上がれる。問題は、寧ろ盛り上がり過ぎたという点なのだ。

店員が持ってきたレシートを森が受け取ると、若干デキあがった様子の岩永がもそもそと上着の内ポケットを探る。
「いいよ。今日は俺の奢りだ。」
「え？でも･･･」
「いいから、そっちの方を頼むよ。」
「･･････？」
森が指差すのは、さっきからやけに重たい気がする右側で。
振り向くと、岩永のジャケットの裾を輝がしっかと握り締めている。
「ちょっと････輝先生？」
もはやすっかり夢見心地の輝はちょっとやそっと揺すっても簡単に起きそうにない。
「随分ご機嫌だったけど、そんなに飲んだかなぁ。」
「よっぽど嬉しかったんだろ。久し振りにあんたと飲んだから。」
「はぁ？」
そう言われれば、確かに以前より一緒に飲む機会が減ったのは事実だ。
最近の輝は、韮崎・水島が来て以来、青木や時には四宮までも無理矢理に巻き込んで同年代で飲みに行く事が多くなった。
でもそれはそれで良い事だし、輝も楽しんでいるように見えるのだが。
「賑やかな新人コンビにあんたのこと取られて、寂しかったんじゃねぇのか。」
「そんなこと･･･」
森のにやにや笑いにからかわれたと思い、赤い顔が口を尖らしてそっぽを向く。
「それより、あの･････どうしましょう。」
「しゃーねぇな。俺んちに泊めるか。」
幸せそうな寝顔に苦笑しながら、輝の片腕を取った。
「ま、タクシーに放り込むまで手伝ってくれや。」

＊　＊　＊　＊　＊

タクシーから降りると、森は輝を背中に背負い、
「おい、大丈夫かぁ。」
岩永を振り向いて声をかけた。
岩永は足取りはややおぼつかないものの、森と輝と自分の鞄を抱えて何とか居間まで無事に着いて来た。
「その辺で適当に休んでてくれよ。」
手伝いますと言う岩永をソファに座らせ、森は正体の無い輝を抱えて客間に消えた。

（ちょっと飲み過ぎたかな････）
素よりさほど強い方じゃないが、今夜は楽しげにはしゃぐ輝の勢いに付き合って、どうやら少し酒量が過ぎたようだ。
でも気分は悪くないし、たまにはいいか。
ソファの背に凭れて、心地良い気怠さに身を任せていた。

と、いきなり背後から降りてきた腕に首を抱き締められる。
「よっ、気分はどうだ？」
「ぅわっっ！」
危うくソファからずり落ちかけた。
「もう！びっくりさせないで下さいよ。」
腕を振り解いて振り返った先には、楽しそうに口元を緩ませた森が立っている。
「輝先生は？」
「お子さまには寝てもらったよ。」
自然な動作で岩永の隣に座ると、いつの間にやら肩に手まで回して。
「あ･･･じゃ、僕も失礼して･･･」
今の今まで緩みきっていた岩永の防衛本能が、目の前の危機に直面して、漸く機能し始めたがもう後の祭りだ。
「いいじゃねぇか。あんたも泊まってけよ。」
「でも、ご迷惑じゃ･･･」
「今更遠慮するこたねぇだろ。此処まで着いて来といて。」
「それは･･･輝先生が心配だったから････」
などと必死で逃げ口上を考えてる間にも、肩に乗ってたと思っていた腕は気が付けば腰の辺りに回っていて。
もはや押し倒されるのも時間の問題････と冷や汗が流れた次の瞬間。
森の身体がすぃと離れた。
「え･･･？」
思いも依らない反応に戸惑う岩永から距離を置いた憂い顔が「ふぅ〜」とわざとらしく大袈裟に溜息をついて見せた。
「そんなに俺のこと嫌いか？」

途端に、まるでこっちが悪いような気にさせられる。
さっきまで身の危険を感じてたのはこっちの方なのに･･･。
「いや･･･き、嫌いとか････そういう事じゃ･･････」
俯いて口籠もる岩永の様子に、森はにやりと笑う。
（もうちっと飲ませときゃよかったかなぁ。）
前後不覚にしてしまっては元も子もないので、加減が難しいところだが。
こうして多少強引に迫っても即座に拒絶して逃げ出さないあたり、案外いい具合に酔いが効いてるらしい。
（こりゃあ、もうちょい粘れば、今夜はイケるかな？）
内心ほくそ笑んで更ににじり寄ったその時。
「ちょっ、ちょっと待っ･･････え？輝せんせ･･い･･･」
「へ？」
場違いな言葉を口にした岩永の凝視する方を、森も振り向く。
「なん･･･？」
其処には居間の入口にシャツ１枚で佇む輝の姿。片手に毛布を引き擦って明らかに寝惚け眼を持て余している。
「輝先生、何やって･･･」
声を掛けると、無言のままぺたぺたと裸足で駆け寄って来た。と思うと、森には目もくれず岩永の胸に飛び込んできゅ〜っとしがみついた。
「わっ！」
ソファに押し倒さんばかりの勢いを避ける余裕は無く、その上、腕を外そうにも、体格に似合わぬ馬鹿力ががっちり掴んで離れない。
お手上げ状態で抵抗を諦めた岩永の胸に、満足そうな寝惚け顔が埋まる。殆ど同時に、あどけない寝息が聞こえ始めた。

収まらないのは森の方だ。
「おい、そりゃねぇだろ、輝先生っ。」
輝を引き剥がそうと襟足を掴む。
と、その手を岩永の指が優しく制した。
「･･･？」
目線をやると、困ったような笑顔にぶつかって手が止まる。

「･･とうさ･･ん････」

沈黙の隙間に届いたのは小さな寝言だった。
呆気に取られて覗き込んだ寝顔はおよそ成人男子とは程遠い幼さで。

「おいおい、勘弁してくれよ。全く････」
愚痴も溜息交じりの森を見て、岩永はくすりと笑う。
子どものように拗ねた素振りをしても、その目はどこか父親の表情だ。
尤も、この人だって普段は随分子どもっぽいところがあると思うけど。
「森先生ももう休んで下さい。輝先生は僕が見てますよ。」
「いーや、俺も此処で寝るぜ。ガキだからって油断できるか。」
ほらね、こんなところが･･･。

くすくす笑いをきまり悪そうに一瞥した森は、ぶつくさ言いながら居間を出ていく。
枕と毛布を持って戻ってきて岩永に手渡すと、自分は向かいのソファにごろりと横になった。
「お休みなさい。」
臍を曲げた駄々っ子を宥める笑顔を横目にして、森は柔らかい溜息をついた。

「おやすみ、“おかーさん”。」

＊　＊　＊　＊　＊

「お早うございます。あら、どうかしたんですか？」
どこかぎこちない歩き方でナースステーションに入ってきた岩永を、遠藤が気遣いの言葉を掛けた。
よく見ればちょっと寝不足気味のようでもある。
「うん、ちょっと腰が････昨夜の姿勢が悪かったかな？」
途端に、ナースステーション中にざわめきが走った。
「え？な、何？」
自分が何か変な事を口走ったかと狼狽える岩永に、一同の窺うような視線が集中する。
「岩永先生、確か昨夜は森先生と････」
「うん、そう。飲みに行って････････えっ？！」
ここで漸く岩永はざわめきの理由に気付いた。
どうやら自分は“お持ち帰り”されたと勘違いされたのだ･･････確かに状況的にはちょっと近いものがあったが。
「ちっ、違っ･･！これは･･･輝先生が！！」
だが、慌てた弁明は却ってざわめきを煽る結果を招いただけだった。
「えーっ？！森先生じゃなくて輝先生にーっ？！！」
「うっそ〜！輝先生が〜っ？！」
「そうじゃなくて〜っ！」
必死の抗弁などもはや誰も聞いていない。

蜂の巣を突っついたような騒ぎは、しかし新たな闖入者によって一変した。
「おはよーっス。なんか賑やかっスね。」
いつにも増してスッキリした表情の輝が、元気よく入ってきたのだ。
一瞬にして止んだざわめきに不思議そうな顔をしたが、岩永を見つけると嬉しそうに懐き寄る。
「あ、岩永先生。昨夜はスンマセンでした。」
（良かった、これで本人の口から説明して貰えば騒ぎは収まる。）
そう考えた岩永の安堵は、輝の言葉にあっさりと崩壊する。
「酒の勢いなんかであんなコトやっちゃって･･････痛かったですか、やっぱ？」
部屋中の視線が、再び岩永に集中する。
「そっ･･･だっ、大丈夫だから、その･･･誤解を招くような言い方やめてっ。」
「はぁ？」

頭を抱えた岩永は、いつから居たのか入口で笑いを堪えて立っている森を見つけた。
「森先生っ。」
これが最後の頼みの綱。藁をも縋る思いで森に助け舟を求めた。
「笑ってないで、なんとか言って下さいよ。」
にやりと笑った森に、直ぐさま自分の甘さを後悔することになるが。

「何を言やいいんだ？あんたが輝先生に押し倒されて悲鳴上げてたコトとか？」

「森先生ーっっ！！」

その後暫く、岩永がナース達の同情と気遣い溢れる視線を一心に受けたのは、言うまでもない。