ほんのかすかな煙草の煙が、ドアの隙間から漂っていた。

そして、その部屋の前で煙草の匂いとパソコンのキーを叩く音に気づいた。
部屋にいるのが誰なのか、その煙草が何を意味するものか、岩永はすぐに理解した。
ヴァルハラの医師であれば、皆知っていることだった。
岩永は音を立てないよう静かにドアの隙間を押し広げた。
赤く染まり始めた陽の光を受け止めるガラス窓のこちら側に、デスクの上のノートパソコンと向かい合う手術着のままの北見の姿があった。
空気の揺らぎさえ許さないような、厳しい表情で、キーボードの上の指を動かし続ける。
パソコンの左脇には火のついた煙草から立ち上るひとすじの紫煙。
今までに何度か目にした、しかし何度見ても胸の締め付けられるような光景。
声をかけられず、その場を立ち去ることも出来ずに、岩永はただ立ちつくしていた。

── いつもそうだ。──
年が近いせいか、外科と麻酔科という関係でよく仕事をともにするせいなのか、北見は自分に対し他の同僚より親しく接してくれているように思う。それが『自分の仕事に必要なスタッフ』として以上のものだと考えるほど自惚れてはいけないのかもしれないけれど。
ただ彼の力になりたい、僕の出来る限り。
それは、一度は望んでヴァルハラを離れた自分を再び受け入れ、何ごとも無かったように付き合ってくれている北見に対する岩永の想いのすべてだった。
しかし結局、こんな時自分はいつも見ていることしか出来ない。
その現実がもどかしかった。

窓から差し込む夕陽が、北見の黒い絹糸のような髪の輪郭を赤銅色に縁取っていく。

ふーっと、張りつめた糸を弛めるように大きくため息をついて、ほとんどフィルターの際まで火の迫った煙草を揉み消した北見は、ようやくドア陰に立つ岩永の存在に気づいた。
「終わったんだ？そっちのオペ。」
声をかけられ思わず一歩部屋へ踏み込んだ岩永は、黙ってみていた気まずさをごまかすように一瞬床に目をやり、すぐにまた北見へ視線を戻す。
「えっ、えぇ。無事に･･･」
そう口にした後で、しまったと悔やんだ。
その表情を見て取ったのか、北見はほんの少し苦笑した。
「あの･･･永田さんですね、３１０号室の・・・。」
「あぁ･･･。」
短く答えて沈黙が続く。
いよいよ濃いオレンジ色に染まる窓の外に向けたその瞳が、岩永には夕陽をはじいて濡れた金色に光ったように見えた。

「行こう、そろそろ着替えないと。」
ノートパソコンを閉じて、立ち上がった北見は先に立って廊下へ出ようとした。
その後ろ姿に不意にこみ上げてきた考えを抑えきれなかった岩永は思わず北見の右腕を掴んだ。
突然腕を掴まれ、北見は反射的に半身を戻した。腕を放した岩永は今度は北見の両肩を掴んで後ろの壁に押しつけた。
「なっ・・岩永先生・・・？」
危うく頭を壁にぶつけそうになった北見だが、そのことよりもいつもと違う岩永の様子に戸惑っていた。
当惑した北見の言葉を耳にして、岩永は自分のとった行動の大胆さにカッと顔が赤くなった。
「す・・すみません・・・。」
それでも確かめずにはいられなかったのだ。
 「・・・でも、あ・・あなたが泣いてるような・・・気がして・・・・」
── まさか、そんなはずないのに ──。
こんなこと言ってしまって・・・きっと呆れてる。
だが、恐る恐る顔を上げた岩永が目にした北見の表情は、予想に反してむしろ心配気であった。
「・・・・・・泣いてるのは、そっちだろう。」
「えっ･･･」
その通りだった。下を向いたら涙がこぼれ落ちそうな目で北見を見つめている自分に気づいて、
ますます赤面する。
大丈夫か、と問われて
「すみません、･・・･･患者さんを亡くしたのはあなたで･･･僕じゃない・・・のに・・・・・」
恥ずかしさと言いようのない感情とが喉の奥で膨れあがり、言葉が最後まで続かなかった。
北見は自分から手を離しうなだれて立つ岩永を少しの間黙って見ていた。
が、彼の肩をぽんと叩いて
「行こう。」
そう言うと廊下へ出て、ロッカールームに向かって歩き出した。
再び後ろ姿を仰ぐことになった岩永に、もう為すすべはなかった。

そして、おもい知らされる。
── やはり僕ではダメなんだ ──

容易に他人に見せることはない彼の悲しみも思いもそのすべてを受け止め、包んで癒せる人間はおそらくただ一人で、･････それは自分ではあり得ないのだ、と。
それでも自分は彼の傍らに立ち、彼を見つめ続けるだろう。
今はそれしかできない出来ないのだから。

足音が次第に遠ざかる。
燃えるような赫に全体が照らされた部屋のドアを、岩永は静かに閉じた。