「岩永、ちょっと。」
呼ぶ声に振り向くと、指先で手招きされた。
無愛想な表情はいつものことだけど、今日のは何だか怒ってるような･･･。
何だろう。僕、何かしたっけ？
身に覚えはないのだから、とにかく行ってみるしかない。
「何ですか？」と訊いた笑顔が若干引き気味なのは無意識だったが。

近付くとやっぱり怒っているみたいだ。
「あの、何か･･･」
訝しく尋ねた途端、北見はいきなり岩永の腕を掴んでぐいっと引き寄せた。
不意のことにつんのめった額に、ひやりと冷たい指が触れる。
「やっぱり。」
「え？」
体勢を立て直した岩永の顔を、きつい視線が睨み下ろした。
「『え？』じゃない。お前は、自分の体調も自覚してないのかっ。」
目を瞬かせる岩永に畳み掛けるような言葉が続く。
「･･･はぁ。」

自覚が無い訳じゃなかった。
朝起きて、少し熱っぽいかなと感じるくらいには。
でも病院に着いたらそんなこと言ってられない。いつもの慌ただしさに紛れて、熱の事なんて自分でも忘れていた。
なのに気付いたんだろうか、この人は。

北見の剣幕にやや気後れもあって口籠もっていると、再度腕を取られた。
「来い。」
それだけ言うと、ずんずん廊下を引き擦って行く。
着いた先は仮眠室。そのドアを開け、ベッドの前まで来てやっと止まった。
そして、有無を言わさぬ目が促す。どうやら少し休めという事らしい。
「大丈夫ですよ、このくらい。」
「手術の予定は入ってないよな。デスクワークは後に回せ。」
「韮クン達に何も言ってこなかったし･･･」
「俺から言っておく。」
「でも、そんな訳には･･･」
往生際の悪い岩永に業を煮やしたか、態とらしく大袈裟な溜息をついて、また岩永の腕を掴んだ。
「分かった。じゃあ森先生の所へ行こう。」
「は？！」
一瞬の間の後、事の重大さに気付いた。
「な、なんで森先生が出てくるんですか？！」
「悪いか。専門医の診断を仰ぐんだ。まぁ、素直に診察を受けるとは思えないが、とは言ってたけどな。」
「もう喋ったんですかっ？！」
岩永の狼狽え振りを、澄まし顔の北見が見下ろして告げる。
「あぁ。でも直接診ないと処方箋は書けないから、大人しく休憩を取らないようなら、引き擦ってでも内科に連れて来いだと。」
切り札の効き目に満足したように、満面の笑みで岩永に迫った。
「さぁ、どうする？」
「う････」
こんな状況で連れてかれたら、この後どんなからかい方をされるか。考えただけで冷や汗ものだ。
「大人しく休むな？」
「･･･はい。」

不承不承頷いたものの、何だか釈然としない。
無理をするなと言いながら、実際の所、言ってる北見本人が一番無理をしているとしか思えないのだから。
ろくに休暇も取らず、急患と知れば呼び出す前に駆け付ける事もしばしば。
当直だって急に穴が開けば埋めるのは大抵北見だ。
そんな状況だから、たまに体調を崩して熱を出しても休もうとせず、結果、院長や森に宥めすかされたりからかわれたりしてるくせに。
そんな自分は棚に上げて、人のことばかり心配されても素直に納得できる訳はない。
･･････いや、心配してくれてるのに文句を言うのもヘンだけど。

渋々ベッドに追い込められながらも『納得できない』顔を向けると
「ほら何してんだ。ベッドに入っただけじゃ意味無いだろ。」
更に急き立てられて、ちょっと反抗心が疼く。
「じゃあ、お休みのキスしてくれたら寝ますよ。」
せめてもの意趣返しにとにっこり笑った途端、肩を掴まれ布団の上に押さえ込まれた。
「バカな事言ってないでさっさと寝ろっ！」
とどめにぺしっと額を叩かれるオマケ付きだ。
あ〜ぁ、やっぱりなぁ。ちょっとくらい期待したんだけど････なんて思いながら目を閉じた直後。

───え？

ふわりと柔らかいものが熱っぽい額を掠めた。

何？今の････って？！
焦って目を開けた時には、北見はもうドアの方を向いていて表情は見えない。
ただ長い髪の隙間から僅かに覗く耳朶が朱に染まっている。

「きた･･･」
身体を起こし掛けた岩永の言葉を遮るように、目の前で白衣の裾が翻った。
振り返らないままドアの手前まで来て立ち止まるとやっと、頬まで染まった横顔がほんの少しだけこちらを向いた。
「ちゃんと休めよ。目が覚めてまだ熱が下がってなかったら、森先生の所に引き擦っていくからな。」

捨て台詞と同時に閉まったドアを見つめて、岩永は固まる。嬉しさと焦りとで。

───そんなぁ。まずいよ。
だって、今ので違う熱が上がりそうだっていうのに････。