静かな夜
                        

ふーっと一つ大きく息を吐いて、頭を軽く振る。
短い髪が揺れた拍子に、残っていた滴が散り落ちた。
仕事の緊張感と疲れもきれいさっぱり洗い流した気分。
家でゆっくり入れるお風呂は、やっぱりありがたみが違う気がする。

僕がリビングに戻ると、北見先生はソファで本を読んでいた。
先にお風呂を済ませた彼も既に寝間着姿。
風呂上がりで上気してた肌も落ち着いて、しなやかな身体を寛がせている姿は見惚れるくらい絵になってる。本人は無自覚なんだろうけど。

こんなに早い時間から二人揃ってのんびり出来る夜は久し振りだ。
当直じゃなくても、急患だ残業だと何かしら忙しくて、帰宅が定時を過ぎるのは当たり前。
日付が変わる頃に漸く帰り着くなんて事もしょっちゅうだし。
たまにゆっくり夕食でも、なんて思った時に限って、非情な呼び出しコールが鳴ったりする。
─── 今夜は鳴らないで欲しいなぁ。
いつにも増してそう思いながら、向かいに座って彼の姿を眺める。

ページを繰る音だけが聞こえる、静かな時間。

と、彼が目を上げて僕を見た。
「何、見てんだ。」
ちょっと不機嫌を装った、照れた顔が可愛くて
「貴方をですよ、もちろん。」
にっこり笑って正直に答えると、口を尖らせてますます赤くなる。
「･･･バカか、お前は。」
「どうして？いいでしょう、こんなにゆっくり出来る夜なんて久し振りじゃないですか。」
「そんな事言ってると、ＨＯＴが入るんだよ。」
「んもう、不吉な事言わないで下さいよ。」
僕が身を乗り出して抗議すると
「お前がつまらん事言うからだ。」
ローテーブルの向こうから伸びた手が僕の頭をくしゃくしゃっと掻き回した。
「ん、お前まだ髪が濡れてるぞ。」
「すぐ乾きますよ、このくらい。」
「バカ。暖かくなったからって油断してると風邪引くんだ、この時期は。」
本を閉じてソファに座り直した自分の足下の床にクッションを置いた。
「ほら、此処に座れ。」
言われた通り大人しく座ると、肩に掛けてたタオルを取られふわりと頭に載せられた。
タオル越しの指が優しく髪を滑り、時々強く擦る。
（あ･･なんか･･････気持ちいい････）
目を閉じて心地良さに身を任せていると、眠くなってきそうだ。

でも、残念ながら僕の短い髪はすぐに乾いてしまい
「よぉし、いいぞ。」
彼は満足そうに僕の頭をタオルから解放した。

その顔がまるで一仕事終えたみたいに、何処か得意気で、嬉しそうで。
「何だよ。何か可笑しいか？」
「いえ･･･」
笑いを堪えてた僕はふと思い付いて、彼の髪に手を伸ばし梳いた。
僕なんかよりずっと長くて豊かな髪は、やっぱりまだ湿り気を残している。
「じゃあ、次は貴方の番ですよ。」
渋る背中を強く押して床のクッションに彼を座らせると、入れ違いに僕が彼の座っていたソファに陣取った。
そして取り返したタオルで、彼がしてくれたように彼の髪を拭く。
強く擦りすぎて髪を傷めないように、優しく、丁寧に。
艶のある真っ直ぐな髪は、乾くにつれてさらさらと指の間を擦り抜けていく。

「どう？気持ちいいでしょ？」
「あ･･･あぁ。」
返事は素っ気ないけど、肩を僕の脚に預けてリラックスしてるのが分かった。
僕も彼の髪の感触が気持ち良くて、何度も根本から毛先まで指を滑らせる。

「さぁ、乾きましたよ。」
声を掛けたのに、何故か反応がない。
返事どころか身動き一つ。
「？」
まさか、ねぇ？
そぉっと首を伸ばして彼の顔を覗き込んでみると････
眠ってる。
見慣れた寝顔は、いつもながら本当に無防備で幼くさえ見える。
これが病院じゃ強面の外科部長だなんて。知らない人が見たら絶対信じないよなぁ。
額に零れ落ちた髪をそっと持ち上げると、細い睫毛が僅かに震えた。

微かな寝息だけが聞こえる、静かな時間。
静かな夜。

こんな夜、僕はちょっとだけ我が儘になる。

もう少しこのまま。彼を独り占めしたまま。･･････出来れば朝まで。
ねぇ神様、いいでしょう。