特別な今日
「ただいま。」
明かりこそ点いていたが、返事は期待していなかった。 この時間じゃ、先に寝ていても無理はない。あいつもこのところICUに詰めっぱなしで、今日は数日ぶりの帰宅だった筈だ。
案の定、返事はなかった。 人の気配もしないし、もう眠っているらしい。 少しほっとした。ヘタすると律義に起きて待っていかねないヤツだから。 休める時に休んでもらわないとあいつの身が保たない。 キッチンからほのかにいい匂いがするから、どうやら夜食くらいは作って置いてくれたのだろう。
ネクタイを緩めながらキッチンに入って─────北見は大きく溜息をついた。 想像は概ね間違っていなかった。 ダイニングテーブルの上には、ラップのかかった皿。そして同居人は既に夢の中だ。 ただ予想外だったのは、料理の皿数がいつもより少し多くいつもより少し華やかに飾られていること。 それと、同居人が熟睡しているのがベッドでなく、キッチンのテーブルだということ。
「おい、こんな所で寝るな。風邪引くぞ。」 肩を揺すって起こすと、突っ伏していた顔が上がって眠そうな目をこする。 「ん〜?ふぁ・・・おかえりなさぁい。」 気の抜けた声が返って、北見の肩が脱力した。 「おかえりじゃない。こんな所で寝て、風邪引いても知らんぞ。」 「あ、寝るつもりじゃなかったんですけど。つい・・・・」 照れ隠しの笑みを責める気は毛頭ないのだが。 「疲れてるならさっさと寝ろ。何やってんだ、まったく。」 「何って・・・・忘れたんですか?今日は───」
いくら忙しいからって、さすがに忘れるような事じゃない、自分の誕生日くらい。 というより、朝から会う人毎に「おめでとう」を言われては、忘れるも何もないもんだ。だいたい何で患者さんまで知ってるんだ?などという疑問は疾うの昔に考えるのを止めたが。 しかし、それも日中までの話で。日勤終了直前に搬入された救急患者の処置が長引いて、約束のディナーは必然的にキャンセル。 それどころか、今夜帰れるかどうかも分からなかったというのに。
「バカか、お前は。こんな用意したって、いつ帰れるか分からなかったのに。」 呆れ声がつい自然ときつい口調になっていた。 「バカはないでしょう。そんなに怒らなくたって。」 「バカだからバカって言ったんだ。もっと自分の事も考えろ。疲れてる時に、人の誕生日なんか気に・・・・」 「だから、自分のためですよっ。」 「・・・・え?」 剣幕もさることながら、意外な反論に言葉が止まった北見を、訴えるような目が見つめ返す。 「僕が何かしたかったんですよ。だって、このところずっと忙しくて、ろくに話も出来なくて・・・・」 「それは・・・・仕方ないだろう。」 「プレゼントも用意できなかったし、ケーキ屋さんももう閉まってたし。」 「・・・・・・」 「でも、やっぱり何かしたくて、今日のうちに。」 ───特別な今日のうちに。些細な拘りだと分かっていても。
「・・・・もう“今日”じゃないがな。」 「えっ?・・・・・・ぁ・・・」 慌てて壁の時計を見上げて、やっと気付いたらしい。 短針がとっくに頂点を通り過ぎた文字盤にどっとヘコんだ様子が、一目で分かった。 「気が済んだか?」 前髪を無造作にかき上げて溜息交じりにそう言うと、翳った視線が更に俯く。 「・・・・はい。」 僕一人で空回りしてただけ。そう思ったのか、込み上げた恥ずかしさを堪えてぽつりと言う。 「もう寝ます。」
「待てよ。」 しおしおとキッチンを出て行こうとする背中を、不機嫌そうな声が呼び止めた。 振り向くと、脱いだ上着を椅子に引っ掛けながら仏頂面の北見はテーブルの上を眺め渡す。 「本当に、これで気が済んだのか?」 「え・・・あの?」 「酒も用意してあるんじゃないのか?」 「あ・・・えぇと、白を冷やしてるんですけど。」 戸惑いながらも、急いで冷蔵庫から緑色のボトルを取り出し、手際よくコルクを抜いた。 透きとおったグラスが2つ、薄いトパーズ色で満たされる。 北見は、手にしたグラスの片方を岩永に差し出して言った。 「ほら、肝心なモノが忘れてるだろう。」 促すように寄せられたグラスが、チンと鳴る。 「?・・・・・・あ。」 ふわりと浮かんだ笑顔に、想いを乗せた言葉が贈られた。
「誕生日、おめでとうございます。」
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