これは夢
───現実じゃない

歪んだ月が見せる、狂った悪夢

鋭い牙で手足を引き裂かれ
容赦ない爪で腑を引き擦り出され

耐えようのない痛みに躰が悲鳴を上げても
逃れる術などありはしない

けれど、これは夢
生きながら僕の身体を貪り喰らう獣達も
みんな幻････

─────現実なんかじゃない

＊　＊　＊　＊　＊

「よく来たな。」
揶揄を含んだ声から、岩永は思わず顔を背けた。
ゆっくりと近付く気配に悪寒が走る。
「逃げ出すかと思ったが。誉めてやるぞ。」
相手が拒否できないのを承知の上での言い種だ。

蒼白の横顔を見下ろしたケビンは、ポケットからピルケースを取り出した。
手の中で弄んで、銀色の小さなケースをカラカラと鳴らす。
「顔色が悪いぞ。安定剤を出してやろうか。」
「いりませんっ。」
その音からも逃げるように、岩永は目を瞑って更に顔を逸らした。
「そうか。まぁ、どちらでもいいが。」
そう言いながら、まだケースを揺らして乾いた音を鳴らし続ける。
「どうせ今夜は薬抜きでと言うのが、リクエストだからな。」
動揺は、岩永の肩がびくりと震えるのが見て分かるほどだった。
見開いた目で床の一点を凝視したまま、唇を噛み締める。
「どうした。嫌か？」
返事は無くとも、答えは分かっていた。そう、否と言わせない切り札を握っているのだから。
「構わんぞ。ならば別の人間を用意するだけのことだ。」
その言葉に、岩永ははっと顔を上げてケビンを睨んだ。
「北見先生には･･････ヴァルハラの人間には、手を･･出さないって････い･･･言いましたよね。」
ケビンは目を細めて口端を吊り上げる。
「もちろん。貴様が素直に従うのならな。」
「････約束･･･して下さい。」
絞り出すような声の余韻を愉しんでさえいるように。
そうして、手首を掴んで強引に開かせた掌に、数個の白い錠剤を落とした。
「言っただろう。貴様次第だ。」

「まだ時間がある。大人しく待っていろ。───こちらの準備もあることだしな。」

 

何かが頬に触れた。

人の指らしいそれが肌を伝って首筋を滑る感触にざわりと身震いして、茫昧とした意識が輪郭を取り戻し始める。
瞼が酷く重いのは･････薬の所為だ。
そうか、自分はまた眠らされたのだと思い出す。でも何故？記憶が欠落しているのも、薬の影響だろう。
まだ霧の晴れない意識をはっきりさせたくて、重い瞼をこじ開けようとしたその時。
「･･･ッ！･･ぁ････」
服の上からまた身体の線をなぞられ、上擦った声が跳ねた。
同時に鮮明になった視界に、自分の置かれた状況が突き付けられる。

目の前、自分を取り囲むように見下ろす男達。
見覚えのあるそのうちの一人が、身を乗り出して覗き込んだ。
「目が覚めたようだね。さすが、時間通りだ。」
感心したように他の男達と顔を見合わせ、愉しげに笑う。
「じゃあ、始めようか。」

無造作に胸元に伸びてきた手に恐怖を覚えた。
反射的に逃げようとして───その異変に気付いた。
「ぇ･･･？！････ぁ･･･あ・しが･･･」
動かない？！
一瞬、何が起きたのか解らなかった。
シーツの上に投げ出された両脚は、膝の辺りから下の感覚が完全に失われている。
岩永の狼狽に気付いた男は、にやりと笑って伸ばしかけた手を足へ下ろした。
だが、掴まれた足は他人の様で、何も感じない。
「効いてるのはこの辺からかな。」
からかうように這い回る指は、やはり触れた感じを与えない代わりに、背筋に冷たいものを走らせた。
「なかなか楽しい趣向だろう。」
「な･･･に･･？」
「そのうちに判るよ。」
再び手が目の前に迫る。
「･･や････ぁあ･･･」
鉛のような足を引き擦って必死で後退る岩永に、男はゆっくりと距離を詰めながら躙り寄る。その様は、獲物を追い詰めて愉しむ獣にも似た残忍な気配を撒き散らし、恐怖を倍加させていく。
───ヒトじゃない？！　そう感じた瞬間、遂に恐怖は臨界を超えた。

「い･･･いやだぁーーっっ！！」
耐えきれず叫んだ悲鳴。

それが、狂宴の始まりを告げる合図。

逃げをうった身体に幾つもの手が掴み掛かる。
いとも簡単に哀れな生贄を捕らえ、広い祭壇の中央まで引き擦り戻した。
次いで、見せ付けるようにわざと派手な音を立てて、服を引き裂いていく。
身に着けたもの全てを剥ぎ取るのに、さほどの手間は掛からない。
恐怖に竦んだ身体は、抵抗一つまともに出来ないまま組み敷かれた。

彼らの間で、既に段取りは着いているのだろう。当然のように、まず一人が馬乗りになる。
男は逃げる顎を乱暴に掴んで自分の顔を真正面に見据えさせた。
「ひっ･･････」
恐怖で見開かれた瞳に涙が滲んでいく。
薬物を使われた前回とは違う。望むと望まざるとに関わらず、緩衝の役目を為していたものが、今は全く存在しない。
容赦無くぶつけられる剥き出しの欲望に射竦められて、もはや悲鳴すら出なかった。

男は喜々としてその姿を眺め降ろす。
「やはりな。思った通りだ。」
まるで子供が捕らえた昆虫を観察するような得意気な笑みさえ浮かべて。
「何故、足だけ動けなくしたか判るかね？」
問い掛けに答える事も叶わずただ弱々しくかぶりを振る獲物の様子が随分と気に入ったらしく、頬に刻んだ三日月を更に深くする。
「逃がさない為じゃないよ。そんな心配はしてないからね。」

溢れた涙が震える頬を伝い落ちた。

「こういう顔の方が似合うぞ。薬で惚けた顔より余程そそるわ。」
望んだものを手中にして、男は満足そうに、喉を鳴らして嗤った。

 

 

気が狂いそうだった。

いっそ狂ってしまえば楽になれるのに。

男達の欲望はまるで飽くことを知らず、退屈な日々の鬱屈を晴らす格好の獲物を喰らい続ける。

身体に伸し掛かっていた重みが退き、同時に内側を支配していた圧迫感が去る。
だが、絶え絶えな息が整う間も与えられず、すぐに別の影が重く覆い被さる。
あと幾度、同じ事が繰り返されるのか。
一度の満足に飽き足らない貪欲さは、二度目三度目を要求してくる。
苦痛とも快感とも区別の付かなくなった衝撃に揺さ振られ、悲鳴はいつしか掠れた嗚咽に変わり。
順番を待つ慰みに口の中に捻じ込まれたもので、それすら封じられた。
喉奥まで侵される苦しさで息が継げず、藻掻いた手は力無く虚空に爪を立てた。
「もう少し舌の使い方を覚えた方が良いな。」
男達の笑い声も貶める言葉も、もう耳に届きはしなかった。

音の無い音を立てて、何かが････････壊れていく。
引き擦られるように意識は、安堵に似た深い闇の中へ沈んでいった。

───コレデ･･･楽ニナレル

 

周囲の閑寂に気付いた時、最初に目に入ったのは白く消え残った明けの月。
灯りのない室内に射し込む淡い光が、すぐ脇に立って冷ややかに見下ろす男の姿を照らしている。

獣達は既に姿を消していた。

「そろそろ動けるだろう。支度しろ。送ってやる。」
ケビンの声に、うち捨てられた人形のような身体は無反応だった。
「どうした。無断欠勤はまずいのではないか？」
感情を喪った硝子玉のような瞳がゆらりと揺らいで、緩慢に声の方へ焦点を結ぶ。

───この人はヒトなのかな
ぼんやり、そんな不可解な考えが浮かぶ。
仕立ての良いスーツを一分の隙もなく纏い、「これから大事な会議がある」などと口にしても、決して違和感はないのに。薄く笑みを刻んだ表情には体温が感じられなくて。
あぁそうだ････僕も仕事に行かなくちゃ。

無言で、のろのろと上体を起こした。
体中が軋んで鈍い痛みを訴える。だが、その理由を考える事を意識は拒否した。
辺りを探り、原形を留めない布切れを手にした。
───コレハ、何？
もはや用を為さない、嘗てシャツであったものを所在なげに眺める岩永に、ケビンは苦笑して命じた。
「シャワーを浴びてこい。その位待ってやる。」

言われるまま、漸く感覚の戻り始めた両足を床に降ろした。
ぺたりと付けた足裏に床の感触はまだ鈍く、立ち上がった途端、支えきれずに膝が崩れへたり込んだ。
床に手を突くと、下にも散らばった布切れが指先に触れる。
───コレハ････

目を逸らし様もない、蹂躙の痕跡。
全身に、刻み込まれた感覚が蘇る。　
「･･･ぁ････あぁぁ･････････」
けれど声は声にならず、涙ももう出なかった。
ただ震える両手で押さえ込むように自分の両腕を抱えるだけ。
嫌と言うほど教えられた。どんなに泣き叫んでも救いはないのだと。

「これを着ろ。昨夜の服はもう使えんだろう。」
ケビンは散らばる布片を一瞥して、サイドテーブルに未開封のシャツを投げ置いた。
そして憫笑を浮かべて淡々と言い放つと、踵を返した。
「１５分待ってやる。早くしろ。」

ドアの閉まる音と同時に、威圧していた気配が消えた。
抑え付けるような空気の重さが僅かに緩んだ気がして、辛うじて息を継げた。
静寂の底に取り残された影が、やがてゆるゆると立ち上がる。
ふらつく足を壁に縋って支え、頼りない一歩ごとに重い身体を少しずつ前へと運んだ。

───病院に戻らなくちゃ
今はその想いだけが、この悪夢の中でただ一つの真実なのだから。

 

 

目を覚まさなくちゃ
───これは夢だから

病院に戻らなくちゃ
─────現実なんかじゃないんだから

朝になれば、ほら、全て消える幻

早く帰るんだ
帰らなくちゃ････････僕の場所に････皆が待ってる処に