ずっと叫んでいた

助けて欲しかった

けれど、声には出せなかった
決して出してはいけない
誰も、この悪夢に巻き込まない為に
人々が救いを求めてくるこの地に翳りを落とさない為に

逃げる事も
狂う事も許されない

一度は“神々の地”に背を向けた僕に出来る、それが唯一つの贖い

 

ＫＺ病院の１ブロック手前で、岩永はタクシーを降りた。
自分の車は安田病院に置いてきた。此処に来た翌朝はいつも、自分で運転できる状態ではないから。
退屈の憂さ晴らしの為に用意された玩具を、最後はぼろぼろになり気を失うまで、男達は手放しはしない。

行く手には、周囲を睥睨するかの如き建物が聳え立つ。それを見たくなくて俯いたまま、其処へ向かって歩き出した。
足取りは重い。このまま消えてしまいたい。
けれど自分が消えたら、ケビンが次の玩具をヴァルハラから選ばないと言う保証は何処にもない。
寧ろ安田への報復に異様なまでの執着を示す彼が次に貶めるとしたら、標的は間違いなく北見だ。
それが分かっていて逃げ出す事など出来なかった。

「岩永。」

不意の声に、心臓が跳ねた。
よく知った声が信じられず、恐る恐る振り返る。目に映ったのは、居る筈のない、いや居てはならない人物。
「き･･たみ･せん････････ど･･どうして･･･？」

それには答えず、北見はゆっくりと近付いてくる。真っ直ぐ岩永を見据えて。
無意識に後退りかけた足が、はっとして止まった。
「まさか？！･･････呼び出された？彼に･･･」
無言のまま岩永の前に立って、漸く北見は口を開こうとした。
しかし言葉は、いきなり腕を掴んできた岩永に遮られた。
「ダッ･･ダメですっ！」
ケビンが何と言って北見を呼び付けたのか、北見が何処まで知ってしまったのか、疑問は闇雲に頭を飛び交う。が、動揺が先に立って何一つまともには考えられない。
行かせちゃいけない、止めなくては。今はただそれしか思い浮かばなかった。
「岩永･･･」
「行っちゃダメッ！帰って！早くっ！！････ッ？！」
悲痛な声は突然途切れた。
北見の拳が岩永の鳩尾に深く食い込んでいた。
一瞬大きく見開いた瞳が光を失い、崩れるように倒れ込む。

倒れ伏す前に抱きとめた腕と
「済まん───」
辛うじて耳に届いた呟き。それが最後の記憶だった。

＊　＊　＊　＊　＊

背後で扉が開く音がして、ケビンは悠然と振り返った。
だが其処に立つ北見の姿に、不遜な笑いを浮かべた顔が訝しげな表情へと変わる。
「随分早いな。」
この時間、此処を訪れるのは、岩永の筈なのだ。
北見を呼び付けておいた時刻はもっと後。
「こちらにも予定というものがあるのだがね。」
そう、狂宴もたけなわの頃合いを見計らって、今度は直に見せ付けてやるつもりだった。
その結果、岩永の精神が保つかどうかは関知の限りではないが。大切なものを守ろうとした必死の努力が、最初から無意味だったと思い知らされた上に、生き恥を晒されるのだから。
尤も、狂ったとしたら、それはそれで北見にはこの上なく残酷なプレッシャーとなるだけの事。堕とすには好都合というものだ。
真の屈辱の中で膝を折らされる苦渋を味わわせてやれる。
シナリオは出来上がっていた。

だがしかし、今目の前に現れたのは北見で。
しかもその口は、ケビンが予想もしなかった言葉を吐いた。
「あいつは来ないぞ。」
北見の言葉に、ケビンの眉が不機嫌そうに寄った。
「岩永はもう此処へは来ない。俺も二度と来る気はない。」
眉間の皺が更に険しくなる。
今までとは何かが違った。強い光を取り戻した瞳も、言葉の端々に籠もった力も。
いいや、この男にジュンジの立場を危うくするようなマネが出来る筈無い。
「いいのかね、そんな口を利いて。」
しかし威圧の台詞も、北見の態度を変える効果は無かった。
「好きにするがいい。だが、もうこれ以上、貴様の思い通りにはさせない。」
決然とした双眸と言葉は微塵も揺るがず。
そして見る間に形相が変わっていく相手に、決定的な言葉をぶつけた。
「あいつもヴァルハラも俺が守る。もう何一つ、貴様が手に入れるものは無いっ！」

言うだけ言って、身を翻した。
叩き付けるように閉めた扉の向こうで何か怒鳴る声が聞こえたが、あくまで無視した。
駆け引きが不得手なのは自覚している。この場で言い争って再びケビンのペースに引き戻されたくなかった。

賽は投げられたのだ。

対決の姿勢をはっきりと見せた以上、これからケビンがどんな手を使ってくるか知れない。
相応の覚悟が必要だ。
法的手段』という言葉も頭に浮かんだ。勿論、そんな事で守り切れるものじゃないと解っている。
恐らく無傷ではいられない、岩永の精神も、ヴァルハラの名誉も。
なにより、事実が、あの人を傷付けるだろう。

それでも───
これ以上傷を拡げないために。
完全な手遅れになる前に。
それを誰かがやらなくてはならないのなら。

降り出した小雨の中、足早に車まで戻って、運転席に乗り込む。
ドアを閉めても、助手席の岩永はまだ目を覚まさなかった。
その横顔を見て、もう一度決意を噛み締める。

───負ける訳にはいかない。

大きく深呼吸の後、エンジンキーを回した。