慈雨

優しい雨の音に起こされた。
柔らかく身体を揺らし続ける微かな振動が車のものだと気付く。
心地良いそれを岩永はよく知っていた。
･･････でも僕の車じゃない。
緩く瞼を開くと見覚えのあるダッシュボード。
更に目線を上げるとガラス越しに、濡れた濃紺のフロントラインが視界に入った。間違いなく彼の車だ。

答える言葉は出なかった。
北見の顔を見ることも出来ず、かといって、悴然とした瞳が流れる街の灯をまともに映しているとも言い難かった。

気遣う気持ちが、雨音と一緒に静かに浸み込んでくる。それでも何も言えない自分が情けなくて、岩永は目を閉じた。

北見は車を路肩に寄せ、携帯電話を取り上げた。
「分かった。３０分で行く。」
「ＨＯＴですか？」
携帯を切った北見に、岩永が問う。
「悪いが、タクシーで帰ってくれ。」
「僕も行きますっ！」
間髪入れずに返った言葉に戸惑ったのは北見だった。
「ダメだ、今夜は帰れ。」
「だって麻酔科医が要るでしょう。」
「大丈夫だ！─── 」
────お前が居なくても────出かかった言葉を寸でで止めた。
食ってかかる瞳は寧ろ縋るかのようで。

北見はＩＣＵのドアを静かに開けた。
中には、昨夜搬入され緊急手術を受けた救急患者がベッドに横たわっている。

その脇で、モニターに向かって座る岩永がいた。

すぐ横まで歩み寄っても、岩永はモニターから顔を上げなかった。
「大丈夫か。」
北見は俯いたままの岩永に声を掛けた。
漸く振り仰いだ顔は、疲れた笑みで小さく頷くとまたモニターに視線を戻した。
安定した数値は、それ程緊張した監視を必要とはしていない。
北見は、岩永が視ないようにしているその患者の顔を見下ろした。
嘗て殺意すら抱いた男の顔が、其処にあった。

スリップ事故で運び込まれた患者は片岡らの手術に託された。
北見と岩永が安田病院に着いたのはその直後。
一息つく暇もなく、次のＨＯＴが来るとの通報が入る。
雨の夜は大抵こうだ。
その慌ただしさもまた、いつもと変わらない救急病院の一コマ。
ただ、今夜はそれだけで終わらなかった。

滑り込んできた救急車の後部ドアが跳ね上げられた途端、その場にいたスタッフの誰もが目を疑った。
それは中から飛び出した輝の所為ではなく、続いて運び出された患者の顔を見たから。
血の気のない顔を苦痛に歪めたまま、ケビンは昏睡状態に陥っていた。

北見は咄嗟に岩永を振り返った。
ケビンと同じくらい蒼白な顔で、岩永はそれでも走り出したストレッチャーに付き添い、呼吸管理を始める。
ただ抑えきれない困惑が、掠れた呟きを漏らした。
「どうして･･･こんな････？」
「俺も訳分かんないっスよ。路地で倒れてんの偶然見つけて。」
岩永の疑問の真意を知らない輝は、あっさりと事実のみを答えた。

早い段階での応急処置が幸いしてか、術後の状態は安定していたが、ケビンはひとまずＩＣＵに運ばれた。
スタッフだけでなく、長期入院の患者の中には、彼が病院を潰す目的で買収を謀った事を覚えている者がまだいる。
実際のトラブルは杞憂だとしても、配慮は必要と判断された。

「よく我慢したな。」
「え？」
戸惑う返事で、自分の言葉の不用意さに思い至る。
岩永は知らないのだ。自分が知っているという事を。
「いや、その････」
いや、気付いているかも知れない。
そして自分は伝えなくてはならないのだ。今でないとしても。いずれ近いうちに。
闘う為に全てを晒す事になるかも知れないと。

だが、決意は容易に揺らぐ。
いつ言えばいい？この優しい友人を酷く傷つける事になる事実を。

口籠もって視線を外した北見を、岩永は見上げた。
彼は多分何かを知ってしまったのだ、と思う。
けれど、何を何処まで知ってしまったのか。
確かめるのが怖かった。自分から訊ける勇気などなかった。

もし───そう、もし････
投薬のタイミング一つ違えれば、モニターの数値一つ見落とせば。
悪夢を永遠に葬り去れたかも知れない。
一瞬脳裏を掠めた、誘惑に近い囁き。

「でも、やっぱり僕は医者だから。患者として此処へ運ばれてきたら･･･やっぱり･･････」

おぞましい悪夢よりも、消えようとする生命を見過ごせる自分になる事の方が恐ろしくて。
偽善だろうと、自己欺瞞であろうと。
医者で在りたい。それが残された最後の、僕の砦。
それを手放したら、きっと僕は本当に狂ってしまう。

そのぎこちない微笑みが赦しなのか、自嘲なのか。溢れ伝う涙が誰の為、何故のものか。読み解く術はない。
北見は自分を見上げる濡れた瞳を黙って抱き締める他なかった。
白衣に顔を埋めてなお、声を殺して細い肩が震える。
ただ労るように背中を摩る手に促され、漸く幽かな嗚咽が漏れた。

彼らは気付いただろうか。
ベッドに横たわる身体の陰にただ置かれていた筈の手が、シーツを固く握り締めいてた事を。