『もう何一つ、貴様が手に入れるものは無い！』

───ばかな。

欲しいものは全て手に入れてきた。
金も、権力も、人の心すら。
己れの力で。邪魔なものは尽く叩き潰して。
そうやって今の地位を築き上げた。
私は間違ってなどいない。

なのに何故だ。
蹂躙の限りを尽くしてなお、たかが一人の医師の生温い信念をさえ壊せず。
究極といえる選択を強いたあの男は、二つながらに守ってみせると断言した。

そうして、この私からあらゆる者が去っていく。
いとも簡単に。
全てを失おうとしたその時でさえ、ヤツの周りには人がいてヤツを守ったというのに。

私はまたヤツに負けるというのか。

･･････抑もヤツに勝って、手に入れたかったものとは何だったのだ。

白い部屋の中で、もはや無意味な問いばかりが、空虚な隙間を埋め続ける。

 

答えは何処にも無い。

 

＊　＊　＊　＊　＊

 

悪夢の終焉は唐突で───呆気ないものだった。

ケビン・ゼッターランドは担当医の許可も待たずに、安田記念病院から転院した。
それから間もなく、ＫＺ病院は日本からの全面撤退を決定した。
経営不振や過剰診療の噂はもはや隠しようもないところで、誰もがこの結果を当然の結末と受け止めた。

転院を余儀なくされた入院患者の多くは周辺の病院に分散して移った。
その一部を安田病院も受け入れたが、元特別病室の患者は少なく、その中に北見の知った顔は一人も無かった。

 

「終わったんだな。」
答えを待つまでもなく、見れば分かった。
「はい。ご心配をお掛けしました。」
正面に立つのは間違いなく、持ち前の光輝を取り戻した瞳。
「───── 聞いて････頂けますか。」
ともすれば揺らぎそうになる視線を、それでも自らの意志で引き上げ、運命にすら挑む事を厭わない。この真っ直ぐな魂の、在るべき姿だ。

安田の顔に自ずといつもの、あの悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「やぁだね。」
「え･･･」
「面倒なコトはお任せだって言ってるだろ、いっつも。」
「しかし･･･」
言い募る言葉を遮るように、安田が立ち上がる。
「おめぇが終わったってんなら、間違いねぇんだろ。」
「だめです。俺は･･･」
無かった事になど出来ない。していい筈がない。
たとえ、赦されなくとも。
「俺は･･････ッ？！」
気が付けば安田の顔が目の前だった。
逃げかけた体を、腰に回った腕に引き寄せられる。
「なぁ、惚れた相手にゃ一つ二つ秘密があった方が魅力的に見えるって、誰か言ってなかったっけ？」
「しっ、知りません、そんな事。」
「そうかぁ。でも、どうやらホントらしいぜ。ただし･･･」
顎に添えた手が、逸れた視線を正面へ導き戻す。

「おめぇは一つにしといてくれや。俺も堪え性が無いんでな。」

北見は息を詰めてその顔を見た。
怒りも焦燥も自責も押し隠して自分を見つめるその瞳に、それでも隠しようもなく滲む───自分への想いを。
そして胸が潰れるほどの痛みを思い知る。この人に対する、これが自分の罪だと。
「申し訳あり････んッ･･」
言葉は重なった唇に押し止められた。代わりに溢れ出たものが睫を濡らし、頬を滑り落ちる。

永い沈黙を経て唇が離れても、もう何も言えなかった。

 

＊　＊　＊　＊　＊

 

誰も気付いてはいない。
あいつの望んだ通り。

光溢れる“神々の地”は、日々変わらぬ活気と喧噪の中のある。
そして────

「北見先生ーっ！」
振り返った北見に、小走りの岩永が追い付いた。
「良かった、間に合って。はい、これ。」
手渡された資料は明日使うものだった。
「そう急がなくてもよかったんだぞ。」
「でも、この後の手術が長引くと今日中に渡せないかも知れないし。」
早い方がいいでしょ、と言ってにっこり微笑う。

分かった事が幾つもあった。
優しいだけじゃない、こいつの強さ。
強いつもりだった自分の脆さ。
あのままいけば、先に壊れたのは果たしてどちらだったか。
今まで守られていたのは、もしかして自分の方だったのではないか。

黙る北見の顔を、岩永は訝しく窺う。
「あの････じゃあ、僕はこれで。」
「あ、待･･･」
行きかけた腕を掴んだ。
その一瞬、静電気のように走る緊張。だが────

「何か？」
振り向いた顔は、見慣れた笑みを乗せる。
「･･いや････」

あの後結局、何も告げる事が出来なかった。岩永も何も訊かなかった。
ケビンの脅威が消えた以上、事実を曝す理由も機会も失われてしまった。
後に残ったのは、互いを気遣うが故の不器用な沈黙。

だが、言いたい事は他にもあった。伝えねばならない事が。
もう無理に笑うなと。
痛かったら、苦しかったら泣いていいのだと。
「岩永、お前は･･･」
「はい？」
言葉を待つ岩永は、相変わらず笑みを作って硬い表情を隠している。

言い方一つで相手をずたずたに傷付けかねない一言一言を、北見は選んで、幾度も噛み締めて、漸く口にした。
「お前は････帰ってきたんだ。自分の意志で･･･此処に。」
そして皆が迎えた。
あの時、お帰りの声は嘘偽り無くヴァルハラ皆の気持ちだった。
「忘れるな、此処はお前の場所だ。」

その瞬間、繕った笑顔が砂のようにみるみる崩れていった。
「僕は･･･」
此処にいてもいいのですか？貴方の傍に････
常に自問していた問い。
決して口に出して訊けなかったそれは、今もまた、声になる事はなかった。

「･･･北見先生。」
光に近付きたかった。
光が似合うこの人に相応しい自分になりたかった。
なのに間違った道を選んでしまい、きっと彼を苦しめた。

それでも自分は此処にいていいのだろうか。
此処にいる資格があるのだろうか。

目を細め、眩しげに北見を見た。
「すみません────ありがとうございます。」
零れ落ちそうな涙を堪えた瞳に映るのは、決して失われることのない輝き。

過ちが赦されたなんて思わない。ただ、償う機会が貰えた。
今はそれだけ。それだけで充分。

僕はこの光と共に歩いて行こう。
どんなに眩しくても、もう目を逸らさない。

この場所が、この人こそが、間違いなく求めた光そのものなのだから。