「よう、調子はどうだぃ？」
軽口めかして問い掛ける。返る答えはいつも同じ。

「もう、大丈夫ですよ。」

────だからもう心配しないで、と。

いつもと変わらない穏やかな瞳が微笑み、そして頭を下げる。
「ありがとうございます。」

 

「･･･そうか。」
零し掛けた溜息を飲み込んで、森は軽く頷いた。
「で？ こんな時間に上がりか？」
そう言って窓の外の星空にちらりと目をやる。
「はい、気になってたＩＣＵの患者さんが漸く落ち着いたので。今、申し送りを済ませたところです。」
「じゃあ後は帰るだけか。」
「えぇ、まぁ･･･」
「よし、そんじゃちょっと付き合えよ。」
「は？･･･ぅわっ！」
状況を把握する前に、面食らった顔ごと大きな腕に抱え込まれる。ささやかな抵抗も虚しく、岩永はそのまま廊下を引き擦っていかれる羽目になった。

ほどなく解放され一息ついた先は、内科部長室。
森の個室であるその部屋は、磊落なイメージに似合わず、いつも思いの外整頓されている。それでいて来訪者に気疲れさせない程度の雑然さは、主の人柄をそれとなく映していた。

「な、何なんですかっ？！」
「ちょっとその辺に座って待ってな。」
森は湯沸かし器のスイッチを入れると、脇の小箱を引っ掻き回し始めた。
（付き合えって････コーヒーの事だったのかな。）
あからさまに安堵の色を浮かべた岩永は言われた通りにソファに収まる。
その様子が可笑しくて、森の肩が忍び笑いに揺れた。
「安心しろ、今夜は泊まりなんでな。酒はまた別の日に付き合ってくれや。」
「遠慮します。」
「なぁんで？」
「また潰されるの嫌です。もっと強い人を誘えばいいじゃないですか。」
「ふ〜ん、例えば北見先生とか？」
「････どうぞ、ご自由に。」
一瞬睨め上げた視線がぷいと横を向いた。

と、目の前に湯気の立ち上るカップが降りてきた。
「ぁ、どうも････え？」
だが、鼻先にふわりと届いた香りはお馴染みの香ばしいものではなく････
「なかなか良い香りだろ。内科ナースからのお裾分けだよ。」
「ハーブティですか。」
淡い色合いと対照的な独特の香りを深く吸い込んでみる。
馴染みのない、名前も知らないそれは、しかし意外なほど自然に、心地良いと感じられた。
「あぁ、彼女達の間で今流行ってるらしいぜ。疲れが取れるって。」
自分のカップを一口啜って、森は隣にどっかりと腰を下ろした。

だが、岩永は手元に目線を落としたまま黙り込む。
暫く沈黙に付き合っていた森が、俯く岩永を窺い見た。
「なぁこういうの･･･苦手だったら、残して構わねぇぜ。」
それには首を横に振った岩永は、一呼吸の逡巡の後、吐息のように呟いた。

「････すみません。」

「ん？」
「あなたにも随分心配掛けたのに･･････ずっと･･･何も言わなかった････」
静かな口調だった。言葉にするのにどれだけの勇気を振り絞ったか、カップを固く握り締めた指を見なければ気付かないだろうほどの。
「悪いと思ってくれてたんだ。」
「そりゃあ･･･」
上げかけた目線は森の顔まで届かず、また下降した。

「俺も悪かったよ。」
「え？」
「無理矢理言わせちまったろ。」
知られたくない悪夢の記憶を自ら語らせる。それは未だ治癒の叶わぬ傷口を再びこじ開けるに等しかった筈だ。
どんなに本人の為を思ったとしても、与えた痛みは変わりない。
「酷い事しちまったな。」

「そんなっ････そんな事･･･」
必死の思いで引き上げたに違いない瞳は濡れて、鏡のように苦い笑みの森が写り込む。
「話せて良かった。貴方で･･･良かった･･････本当です。」
涙は辛うじて堪えた。もうこの人の前では泣くまいと決めたのだから。

伸ばされた大きな掌が、背中を優しく叩く。
「ありがとよ。」
「･････」
今声を出せばきっと泣き出してしまう。
言葉を返せないまま、岩永は俯いて何度も首を振った。

 

「よぉ、やっぱり無理して飲むこたないんだぜ。」
結局カップの中身は半分以上残ったまま冷めかけていた。
それでも岩永は揺れる澄んだ亜麻色を大事そうに手の中で押し包む。
「いえ、美味しいですよ。本当に気分が落ち着くし。眠くなってきそうなくらい･･･」
クスリと笑うと消え残る香りと共に一口含んだ。

「じゃあ一眠りしていけよ。」
「え？」
いきなり思いがけない奨めに岩永は目を瞬かせたが、言った本人は大いに本気らしい。
「うん、そいつがいい。仮眠室まで戻らなくても、このソファ使っていいぜ。」
言いながら、ソファの背凭れをいじり座面と水平に倒すと、ソファベッドへと早変わりする。
もともと大柄な森が仮眠にも使えるようにと自前で持ち込んだもの。ゆったりとはいかないまでも、横になるには充分な大きさだ。
次いで、呆気にとられる岩永の手からカップを掠め取り、代わりに毛布を投げ渡す。
「いや･･･あ、あの･･･そんなつもりじゃ････」
「真っ暗にしなくても眠れるよな。」
パチンと音がして天井の灯りが落とされる。が、暗闇は訪れなかった。
カーテンを開け放った窓を通して、青白い薄闇が室内を染める中、デスクのスタンドライトが机上の一角をぼんやりと照らしている。
「じゃあ、お休み。」
未だ戸惑う頭をくしゃりと撫でて、森は席に着き書類を取り出した。

「あの･･･ぁ･･････」
毛布を抱えたまま途方に暮れた声が、程なく諦めに変わり
「･･････お休みなさい。」
もそもそと拡げた毛布にくるまった。

やがて聞こえてきた小さな寝息に、書類を繰る手が止まる。
頬杖を突いた掌を、さっきは飲み込んだ溜息が転がった。

見た目ほど弱いヤツじゃない。
だからこそ、歯痒い思いを強いられる。
柔らかい笑みは今も、人知れず後悔の鎖を引き擦っているのだから。
悪夢の残像も過ちの意識も、夜毎の月に喚び起こされ、気付けば、伏し目がちの瞳は哀しげな翳りを纏っている。

それでも、随分ましになったと思う。
あの、余所行きのポートレートを貼り付けたような笑顔でなくなったのだから。

きし、と椅子の背を軋ませて見上げた窓越しに、白円が素知らぬ顔で冴えた光を投げ掛ける。

人の気も知らねぇで。
恨めしげな視線を嗤っているのか、哀れんでいるのか。

月の光は罪を曝し出すものじゃあないし、あれがあんたの罪だなんて、誰も思っちゃいない。
だから悪い夢なんぞもう忘れちまえ････と言えたらなら。

けれど、忘れるには深すぎる傷。癒すのに、言葉はどうしようもなく無力だ。
だから今は、ただ黙って傍にいてやるしかないのだろう。
ずっと傍に。
ただそれだけ、だ。

いつか────

遍く照らす白い光輪が夜の地上を慈しむ為に在るのだと、そう思えるその日まで。