「見せたいものがある。」
たった一言。それだけ言って切れた電話。
普段ならきっと無視した筈だ。が、その時は妙に癇に障った。
「分かった。」
薄笑いを含んだ低い声が耳障りで、北見は乱暴に受話器を置いた。

 

 

「用件は？」
勧められるソファーを無視した。無作法は承知の上で、態とコートも脱がなかった。
「そう急ぐこともなかろう。」
飲み物を置いた女性が出て行った後、正面の男は鷹揚な素振りで席を立つ。
「他人の部屋を訪問する時には、それなりに礼を払うものじゃないのかね。」
そう言うと、北見の肩に軽く手を置き、革張りのソファーに身を沈めた。目の前のカップを取り上げ、向かいのソファーを片手で示す。
「掛けたまえ。ゆっくり話しをしようじゃないか、北見先生。」
薄い唇を歪め、コーヒーを啜った男―――ケビン・久坂・ゼッターランドは、北見の神経を逆撫でするように、殊更ゆっくりと言葉を紡いだ。

「で、見せたいものとは？」
コートを脱ぎ、ケビンの向かいに腰を下ろす。勧められたコーヒーに一瞬眉を顰めたが、息だけの笑いが不愉快で、ぐいとそれに手を伸ばした。
「せっかちだな、君も。」
煽るようにコーヒーを流し込む北見を見ながら、ケビンはフンと肩を竦めた。
「オレは、あなた程暇ではないのでね。」
「あんな貧乏病院に勤めてるからだ。私の元へ来れば････」
ガシャン、と陶器のぶつかる音がした。真っ向からの射抜くような視線にも、ケビンは動じる様子はない。
「そんなに、ジュンジがいいとはな。」
「用がないのなら、帰らせて貰う。」
その問いを黙殺し、コートを掴んで立ち上がり掛けた北見の鼻先に、黒い箱が突き付けられた。
「･･･ビデオ？」
「あぁ。何が写っているか、興味はないか。」
言いながら立ち上がると、テレビのスイッチを入れ、備え付けられたビデオデッキにテープを入れる････と、その途端。

『･･･や、･･･ぁ････････ぅあぁ････』

「な･･･に・・！？」
信じられない光景が映し出された。
備品から見て病室らしいが、そうとは思えない豪華な部屋。中央に据えられたキングサイズのベッド。その上で二人の男が蠢いている。
組み敷いているのは、今目の前にいる男。組み敷かれているのは――――
「いわ･･･な・・が････」
「ご名答。」
ケビンは、殊更楽しげに笑った。

「貴･･様････っ！」
震える拳を握り締め、殴り掛からんばかりの北見を、ケビンは小馬鹿にするように一瞥して言う。
「取引はどうかな、北見先生。」
「取引？」
テレビに寄りかかるようにして、徐に体ごと向き直った。
その背に遮られて画面は視界を外れたが、スピーカーからはまだ耳を塞ぎたくなる声が聞こえて来る。北見は不快感を顕わに眉を寄せた。
「････その前に、それを消してくれ。」
「あぁ、失礼。」
ケビンは漸く気付いたような顔をして、ビデオのスイッチを切った。
音が消え、部屋に再び静寂が戻る。息を吐いた北見は、長い前髪を掻き揚げた。
「オレにどうしろと？」
「応じるという意味に取っていいのか。」
リモコンを玩びながら、ケビンがちらりと北見を見遣る。
「それを渡してくれるなら。」
「勿論だ。」
取り出したテープを箱に仕舞う。
「テープが一本だけだという証拠は？」
「そうだな、私の良心に掛けて。」
「････････」
良心が聞いて呆れる。悪びれもしないケビンに、北見は鋭い視線を向けた。
「まぁ、そこは信じて貰うしかないな。だが、これは正当な取引だ。私も一介の経営者である以上、取引に不正な真似はしない。」
今までの手段を思い起こせば、信じるに足る要素は欠片もないが、それでも今は信じるしかない。その言葉に嘘があろうとなかろうと、今の時点で他に選択の余地はなかった。

「いいだろう。要求は？」
「そうだな･･････三億でどうだ？」
面白そうにケビンが言った。要求の額面は、ヴァルハラ買収時の残金と同額。
知っていて言うのだ。北見が細い眉を寄せる。
「冗談だよ。今更そんな端金、何の意味もない。」
金に不自由はしていない。それに元々、利潤目的の買収ではなかったのだ。欲しいものは他にある。
「君がウチに来るのもいいな。」
今度は、あの引き抜きと同じ条件。北見は唇を噛んだ。
「どうする？」
苦渋に満ちた北見の顔を見ながら思う。それも面白いかもしれない。少なくとも、安田の慌てる顔は見られるだろう。
だが、それも一瞬で終わりだ。
今、三億を要求したところで、皇がポンと用意するのだろう。理不尽な引き抜きを掛けたところで、連れ戻されて、それで終わりだ。世論と金を味方につけたあの病院に、今更何が出来るというのか。
ケビンは苛々と爪を噛んだ。

ビデオが回っていたのは偶然だった。
特別室には、患者の容態の把握と防犯を兼ねて、カメラが設置されている。
普段空き部屋の時は回さないのだが、前日まで入院していた患者の担当看護婦が、誤ってスイッチを切り忘れていたのだ。
謝罪に来た看護婦を怒鳴りつけた後、ビデオを眺めながら思った。これを何かに使えないかと。
ＫＺ病院の経営は、実のところ思わしくない。
会員数は然程集まらず、その上、あの医療ミス以来立ち始めた噂の所為で、脱会する会員まで出て来ている。

―――ジュンジとヴァルハラを叩き潰す。

病院の設立目的は大部分がそれに近かったが、当然それ以外にも構想はあった。だが最早、この病院はそれ以外での役目を成さない。いや、それすらも既に怪しい。
ケビンの経営者としての感が告げていた。この先は時間の問題だ。
だったら、その前に。
何でもよかった。あいつを、あいつ等を、屈辱に塗れさすことが出来るなら。
「それは･･･」
北見の声に我に返った。震える拳に優越感が湧き上がる。
「いや、こうしようか。」
ケビンは勝利を確信しながら、これ以上ない侮辱の言葉を吐き捨てた。
「土下座したまえ。」

北見が驚愕の表情を向ける。
「聞こえなかったか？　土下座しろと言っているんだ。」
勝った、と思った。あの時の好条件な引き抜きを、最高のプライドで返したこの外科部長は、その誇りをずたずたに引き裂かれ、今自分の前に平伏すのだ。
屈辱に濡れた瞳を思うだけで、ぞくぞくする震えが体を過る。
あの安田が、後継者と認めるヴァルハラの外科部長。奴が自らの目で見出し手塩に掛けた北見という男を、この手で屈服させるのだ。それは即ち、己が安田に勝ったという証でもある。
眼前の勝利に酔い痴れるケビンは、けれどその答えに耳を疑った。
「それでいいのか。」
意外過ぎる程平静な声だった。
「何だと？」
眉を顰める。一体、こいつは何を言っているのか。
「跪けと言ったんだぞ。」
「あぁ。だから、それだけでいいのかと聞いている。」
その言葉に面食らった。『それだけ』とはどういうことだ。『それほど』に大きな屈辱の筈だ。
「いいんだな？」
「････ぁ、あぁ。」
曖昧な返事のまま戸惑う内に、目の前の北見が腰を折る。
静かに下りた頭が腰の位置になり、手を付いた北見が頭を下げると、長めの髪が床を擦った。

手の届く位置にある事実が、俄かに信じられなかった。
呆然と立ち尽くしたままのケビンを、北見は訝しげに一瞥すると、体を起こしてスーツに着いた埃を払う。
「約束だ。」
テープが手から擦り抜けた。握っていた筈の黒い箱が、いとも簡単に手を渡る。
北見は箱からビデオを出して、思い切り床に叩き付けた。
―――ガチャン
大きな音がして、プラスチックの外身が砕けた。黒い欠片が床に散らばり、巻き取られたテープも、縒れて飛び出している。
北見は屈んで、中からテープだけを引き出すと、灰皿に乗せて火を点けた。黒い煙が立ち昇る。
鼻を突く異臭が、空気に紛れるまでを見届けて、北見はコートを取り上げた。
「失礼する。」
「な････何故だ？」
何度考えても、分からない。何が起こった？　何故、何も変わらない？
無意識に口を突いた問いに、戸口の北見が振り向いた。
「他人の為に捨てられないプライドなど、何の価値もないと思うが？」

「何･･だとッ･･･！」
その一言が、ケビンの心の闇を抉った。漸く、卑下されているのは自分の方だと思い知る。震える程の怒りが一気に背筋を駆け上がった。
「待てっ！！」
出て行く寸前の肩を掴む。
「離せ･････っ！？」
その手を振り払おうとした途端、北見の視界がぐにゃりと歪んだ。
「･････ぇ･･･」
慌てて、ドアに片手を付く。が、それすらも体を支え切れず、がくりと両膝が前へ折れた。
のめり込むように倒れた体を、そのままケビンが受け止める。
「な･･に？」
「こう見えても、育ちが育ちなんでね。あまり手癖の良い方じゃない。」
朦朧とした視界に映る白い粉末。コーヒーだ、と気付いた時には、既に縋り付く力すら抜け落ちていた。

 

＊　＊　＊　＊　＊

重い瞼を抉じ開けると、豪奢なシャンデリアが見えた。
さらりとした布の感触と、柔らかく体を受け止めるスプリング。寝かされているのは、どうやらベッドの上らしい。
頭を摺るように曲げて、辺りを見回した。
病室ではないようだ。地模様の入った落ち着いたベージュの壁紙は、先ほど通された部屋と同じ柄。脇に見える扉は、左奥にあった扉と似ている。恐らくは、部屋続きに作られたケビンの個室。
シュッという音に目を遣ると、ワイシャツの背中が目に入った。椅子に掛けられた上着の上に、解いたネクタイが重ねられる。
北見は眉を顰めた。この状況でどうなるかに気付かない程、子供でもないし世間知らずな訳でもない。
違和感に気付いて顎を引くと、衣服はすべて取り去られていた。動きの鈍い手で確かめるが、下着一つ残されていない。

「起きたか？」
気配に気付いたらしい背中が振り返る。北見は光に曝された肢体を隠そうともせず、真っ直ぐな視線をケビンに向けた。
「ほう、面白いな。あいつとは、随分毛色が違うらしい。」
その言葉に、北見の眉根がきつく寄る。
「さすが、ジュンジのお手付きだけのことはある。」
「貴･･さ････」
「違うのか？」
楽しそうにフハハと笑う。北見はぎりりと歯を鳴らしたが、まだ体は思うようには動かない。
「まぁいい。貴様も楽しめばいいさ。あいつと違って、それなりの経験はあるんだろう？」
そう言うと、ラベルのないチューブを取り出す。
「あのビデオと同じものだ。折角他人の為に頭を下げたんだから、痛みの方もその身で知っといてやるといい。」
ケビンは小さな蓋を開けると、中身を掌に搾り出した。

被さる男の荒い息が聞こえる。
防音の聞いた室内には、湿った音だけが響いていた。
本来感度の良い体は、僅かな刺激にも意思に反して反応する。それでも、北見は唇を噛んだまま決して声を漏らさなかった。高波が来る度に唇を噛み、攫われそうになる一瞬を遣り過ごす。
行為自体に嫌悪はなかった。慣れていると言われるのは心外だが、今更否定する気もない。恋愛感を論じるつもりないし、貞操観念を云々言われる覚えもない。
が、それでも、この男に感じる自分は許せない。
「まだ足りないか？」
玩ぶように見下ろすケビンの顔を、北見はきつい視線で睨み上げた。黒い瞳は挑むような激しさのまま、一度も閉じられることはない。
「狂うぞ。」
圧し掛かるようにして、体を揺するケビンが言った。
「そこらの生温い代物じゃない。」
熱い息が耳に掛かる。声を噛む北見を嘲笑うように、腰の動きが早まった。
「墜ちなければ、狂う････」
初めて北見の瞳が閉じた。

そして、数瞬。
瞬くように、一度閉じた瞼が上がる。
ごくりと唾を飲み込んで、開いた唇はそこに短い答えを乗せた。

「････断る。」

どこまでがプライドで、どこらからが惰性だったろう。
その境さえ解らぬまま、人間の精神力は時に薬の作用すら凌駕するものなのだとぼんやり思っていた。
幾度となく弾けそうになる意識を繋ぎ止めていたものは、プライドではなく力ずくの意地だった。

 

組み敷いた体を見下ろしながら、ケビンは苛ついていた。
一度たりとも上がらない声。悲鳴どころか、一筋の涙すら零れない。
何故だ！？
屈服させた筈だった。なのに、目の前に跪かせても、力ずくで陵辱しても、漆黒の瞳に宿る強い光は失われない。懇願や絶望の色はなく、寧ろ侮蔑や憐れみの色すら滲んで見える。
「･･ふぅッ･･･」
高揚して行く吐息と精神。こいつだって、感じていない訳はない。それが、何故。
まさか、････ジュンジか？　そうなのか！？
何故、あいつはこうも自分の前に立ちはだかる。何故、あいつの傍に人が集まる。何故だ？！
「･･･くッ！」
絡みつくような熱い内部に煽られて、ケビンは熱い滾りを吐き出す。
「まだ、終わりじゃないぞ。」
僅かに息を吐いた北見に―――いや、己に向けてケビンは言った。

大丈夫、大丈夫だ。まだ残っている。自分にはまだ、もう一つ――――

 

――――Ｔｒｒｒｒｒｒ･･･

その時、枕元の電話が鳴った。
「････来たらしいな。」
ニヤリと笑ったケビンが、愛撫の手を一切止めて通話ボタンに手を伸ばす。
「竹下か？」
オープンになった送話口から、北見をここへ通した秘書らしき男の声が聞こえて来た。

『安田院長がお見えになりました。』

「･･････な･･･ッ！？！」
北見が蒼白な顔で硬直する。全身から一気に血の気が引いた。
徐に振り返ったケビンは、満足げに口端を吊る。
「理事長室へご案内しろ。･･････奥の部屋までな。」
プツッという音を最後に通話は切れた。
「見ものだな。」
ケビンが微笑う。今度こそ、自分は勝ったのだ。
「クックッ･･･」
心の奥底から、押さえ切れない笑みが湧き上がった。

 

「貴様―――！」

眼前で笑い転げる男。
その下卑た笑みを切っ掛けに、押さえていた感情が堰を切った。
それは、医師として忌むべき感情だったかもしれない。

それでも、

こいつは、

こいつだけは――――

北見は今日、生まれて初めて、他人を『殺したい』ほど憎悪した。



《 ｂａｃｋ 》