「謝んねぇぞ。」

「はい･･･」

「おめぇが悪りーんだからな。」

「････はい･････申し訳ありません。」

机の正面に後ろ手を組んで立つ、院長室でのいつもの光景。ただいつもと違うのは、北見が俯き加減で決して安田と視線を合わさない事。

「でぇ？」
「え･･･？」
「何故だ？」
「･･････」
「呼び出されて訳もなくのこのこ出てく程、おめぇも暇じゃあるめぇ。」

「････いえ。」
そう言った後が続かず、唇を噛み締める。

こんな風に貝になった状態の北見の口を割らせるのは殆ど不可能だろうことを、安田は分かっていた。
「まぁいいさ。これであいつもいい加減バカらしくなったろ。」
態と悪戯っ子のような笑いを浮かべて見上げた安田の言葉に、北見は真っ赤に染まった顔を伏せて黙ったまま視線を散らす。
安田は諦めの溜息をついて掌をひらつかせた。
「あぁ、もーいい。仕事戻れや。」
「はい。失礼します。」
ドアの手前でもう一度深々と頭を下げた北見を安田の一言が追いかけた。

「もうバカな真似すんなよ。」

                            ＊　＊　＊　＊　＊

それはまさしく、どぎもを抜かれる状況だった───仕掛けた筈のケビンですら。

部屋に一歩入った所で、安田の足が止まった。
怒りに震えているか、狼狽しているか。いずれにしろこれまでの報復として充分な愉悦が味わえる姿を拝める筈だ。
ケビンは勝利の瞬間を確信して安田を振り向いた。
「きみのお姫様は貪欲で参るね。これだけ感じてるのに、なかなか満足してくれないんだから。」
勝ち誇った視線を向けた先に立つ男は、一瞬目を眇め片眉を吊り上げた。それは動揺のようにも見て取れたが。
曖昧な表情はすぐさま霧散し、にやりと不敵な笑みが返された。
予想もしていなかった反応に無意識にたじろぐケビンを無視して、再び室内に歩を進める。
「そりゃあ、おめぇ。」
途中、銜えていた煙草を手近なキャビネットの側板で揉み消すと、ケビンの横を擦り抜けベッドに近付いた。
「お姫様の扱い方ってモンが分かってねぇのよ。」

ベッドの端に腰掛けた気配に、北見は顔を背けるのが精一杯だった。
決して見られたくない光景を一番知られたくない人間の前に晒されてしまった。怒りと悔しさで体中の血が逆流した。
だが───
「よぉ、猫じゃあんめぇし。なぁに毛ぇ逆立ててんだよ。」
張り付いた髪ごと首筋をさらりと撫で上げられて、全身に電流が走る。
「･･･ぁあっ･･っ･･」
甘く掠れた吐息を堪えようがなかった。
「なんだ、もういけそうじゃねぇか。」
安田は上気した肌の上に指を滑らせながら、もう片方の手で器用に服を脱ぎだした。

「なっ何をする気だ？！」
もはやケビンには先が読めなかった。安田の行動はいつも予想を裏切り、その度自分は無様に翻弄される。
「あん？決まってるじゃねぇか。お姫様のお相手よｖ」
「な･･･にっ！！」
絶句するケビンを後目に安田は手を止めない。

翻弄されるのは北見も同じだった。
「や･･め････」
まさか、こんな処で･･･あの男の前で･･････？
いかに広くとも限られたベッドの上に逃げ場はない。それでも思うに任せぬ手足で後退りながら、辛うじて残る理性の欠片で必死に懇願の目を向けた。
だが、もとより身体は限界をとっくに超えていた。
驚きと羞恥は意識の混乱に拍車を掛けるだけ。一度堰を切った衝動を抑え込む術はなかった。
腕を掴んで引き寄せられた途端、今まで抑え込んでいた熱が一気に拡がっていく。
「あ････ッ･･････はぁ･･･」
「きついんだろ。我慢しなくていい。」
身体が覚えている指の感触と優しく促される声を前に、抗う意識は跡形もなく吹き飛んだ。
覆い被さってくる重みを受け止めるように白い腕が背中に回る。
誘われるままに口付けようとしたその時、どかどかと苛立った足音が響いた。
続いて荒々しく扉が閉まる音で、部屋の主が出て行った事が分かった。

「あ〜あ････せっかく見せつけてやろうかと思ったのによぉ。」
言いながら安田は顔を起こした。言葉と裏腹に半ば安堵交じりの声であったのは、聞く者が居ないと分かってこそだ。
ともかく後はこいつを連れて帰るだけ。
そう思って向き直った顔を下から差し伸ばされた腕に絡め取られ、引き寄せられた。
「いかん。こりゃ完全にイっちまってるな。」
熱に浮かされて潤んだ瞳に、もう安田以外のものは何も映っていない。
これでは薬が抜けるまでは下手に外へ連れ出すのも考えものだ。
「････ま、いいか。」
ねだる唇に答えを返して、安田は時間の経過を有意義に待つ事にした。

                            ＊　＊　＊　＊　＊

今思い出しても顔から火の出るような思いだ。あの人の破天荒さに今更驚いても仕方ないことだが･･･。
結局、漸く醒めかけたのを見計らって服を着せられ、それでも思うように利かない身体を両腕に抱えられてあの部屋を出たのだから。
「や･･やっぱり、降ろして下さいっ。歩けますから！」
「まだふらふらの癖して何言ってやがる。こんなとこさっさと出たいだろが。」
「だからって･･･」
「だだこねてっと、このまま表玄関から出てやるぞ。」
「ちょっ･･･それだけはっ！！」
正面玄関でなく通用口を通ってくれたのがせめてもの救いと言うべきか。
車に乗せられ自宅へ送られ、その後さすがにそのまま眠らせてくれたのは感謝している。
その代わりが、今朝の詰問だった訳だが。

医局に戻った北見の目に、変わらない病院の日常が映る。
皆それぞれが今日の予定を確認し、為すべき事を為すため既に動き出している、いつもの風景。
その慌ただしさの中、北見に気付いた岩永がいつもと同じ穏やかな笑顔で会釈した。

 

もう誰にも何も言う気はないし、言う必要もない。
ケビンが呆れようが何しようが、とにかくこれでヴァルハラの人間に手を出す気が失せてくれればそれでいい。
もうこれで全て終わったのだ。

北見は身の内に蟠る吐き気にも似た不快な感覚を無理矢理にねじ伏せて、大きく息をついた。

そう、悪夢は終わった筈だった。