何も無かったことにして、全て忘れてしまえたら。
どんなにそう願っても、記憶の棘が決してそれを許さない。
白昼夢のようなフラッシュバックが、繰り返しあの夜の光景を突き付ける────あれは現実だ、と。

だから僕は、これまでと少しも変わりなく笑ってみせる。
そうしなければ。誰にも気付かせない為に。
そう、誰にも決して。
けど･･････

僕はちゃんと笑えてるのかな

 

───誰か

 

──────助けて

 

 

＊　＊　＊　＊　＊

今さら意図が解らなかった。『来い』だと？ふざけるな！
「断る。もう用などない筈だ。」
不快感を露わに、北見は言い放った。
切ろうとした受話器の向こうで低い笑い声が耳につく。
「いいのか。ヤツは来てるぞ。」
「な･･･？」
問い質す前に通話は切られた。

院長とは少し前に院長室で話したばかりだ。
『ヤツ』と言われて、他に一人しか思い当たらない。
一瞬躊躇ったが、既に帰路に就いた筈の岩永の携帯に掛けた。
７回････８回･･････いつもならせいぜい４回で止まるコールが鳴り続ける。
１０回目で止んだコールに、ほっと気が緩んだのも束の間、
「あぁ岩永、今いいか？」
次の瞬間、戦慄が走った。

「どうやら、来る気になったかな？」

ついさっき聞いたばかりの耳障りな声。
そしてこちらの返事を待たずに、また一方的に切れた。

 

夜間にも拘わらず、警備員は予定の来客の如くにすんなりと北見の車を通した。
それが苛立ちを募らせた。まるで相手の言いなりにされているようで。

理事長室にいたのは、ケビン一人。
その手で弄んでいる物を見た途端、かっと頭に血が上ったのをやっとの思いで抑え込んだ。
「岩永は何処だ？！」
怒りを込めた突き刺すような眼差しを、ケビンはさも愉快そうに嗤ってかわす。
焦らすかのように、殊更ゆっくりと手に持っていた岩永の携帯を机に置き、立ち上がった。
「来たまえ。」

照明を半分落とした長い廊下が続く。
その寒々しい空気に北見は眉を顰めた。
広さの所為だけではない、ヴァルハラとは明らかに異質な無機質さは、まるで無人のオフィスビルを思わせた。

通されたのは病室ではなく、その隣のドア。思いの外狭い部屋で、どうやら入院患者の希望に応じて看護者が宿泊する為のものらしい。
だが、そこにも岩永の姿はなかった。
椅子を勧められても、北見は隠した拳を握り締めたままケビンを睨みつけた。
いっそその首を締め上げて問い詰めたかったが、岩永の身柄を確かめるまで迂闊な事は出来ない。
完全に相手のペースに嵌められている焦りは隠しようもなかった。

北見の焦りを充分に見透かした上で、ケビンはまるで世間話でもするように話し出す。
「近頃は我々もなにかと新しい経営努力が必要でね。病室の稼働率も落ちているし。例えば････」
含みのある笑いを浮かべて、北見の沈黙を一瞥した。
「入院患者が退屈しないように如何に娯楽を提供するかなどは、お互い頭を悩ます問題ではないかね。」
嫌な噂を耳にしていた。司法やマスコミの追求をかわすために金を積んで診断書を手に入れ、或いは病院に逃げ込む輩。此処が彼らに格好の隠れ場所を提供していると。
そんな連中にこの上どういう類の娯楽を提供しようというのか。いずれにしろ、碌なものでないだろう事はその表情から容易に見当が付いた。
だが、もう忍耐は限界に来ていた。
「俺達には関係ない！岩永を返せ！！」

北見の言葉に応じるように、ケビンは監視用の小型モニターのスイッチに手を伸ばした。
画面に映し出されたのは『あのテープ』と同じ豪華な病室。薄暗がりの中、中央に設えられた広いベッドも同じ。
およそ病室に置かれるには不似合いなほど贅沢な作りのベッド、そこに数人の男達が群がっている。
彼らが押さえ付けている者の姿を視認することは出来ない。
だが、辺りに散乱する衣類は確かに見覚えがあった。夕方、別れ際に見た私服そのまま。
なにより

「････ぁ、･･････あぁぁ･･･････ッ････」

苦しげに掠れる声を間違う筈はない。
「岩永･･･っ！」
叫ぶと同時に身を翻した。
隣に通じるドアを体当たりする勢いで開けて、中へ飛び込んだ。
モニターに映し出された通りの広い部屋、中央に置かれた大型ベッド。
だが、そこには人影も気配すらもなかった。

「他にも部屋はあるぞ。１つ１つ片っ端から捜してみるか？」
振り返る北見の後ろで、からかうようにくつくつと嗤う声。
「邪魔しては悪かろう。ヤツも楽しんでいるようじゃないか。」
「貴様っ！！」
胸座に掴みかかる北見を払いもせず、冷ややかな笑みが見下ろす。
「安心しろ。この前のようなキツい薬じゃない。」

 

＊　＊　＊　＊　＊

生温い、澱んだ水の中にいるような感覚。

目を開けても、意識同様にぼんやりとした視界。

見知らぬ男達が見下ろしている。
「･･････だ･･れ･･･？」
答えはなかった。
ただ舐めるような目つきで笑いながらシャツのボタンやベルトに手を掛け、外していく。
彼らがこれから何をする気なのか、自分が何をされるのか、よく働かない頭でも予測が付いた。
なのに不思議なくらい他人事のように、僕はそれを漫然と見てる。
恐怖も羞恥も、ガラス一枚隔てた向こう側にあるみたい。
ガラスのこちら側に抵抗する僕はいない。
尤も、抵抗しようにも手足は酷く重くて。指一本思い通りにならないのだけど。

服を剥ぎ取りながら、幾つもの手が体中を撫で回す。
少しずつ熱が思考も感覚も浸蝕していく。
「･････いや･･･だ･･････や･･め・・・」
浅く上がった息の合間に、やっと言えたのはこれだけ。
でも聞き入れられる筈はなく
「やはり、素人は反応が素直でいいね。」
慣れた段取りを彼らは明らかに楽しんでいた。
弛緩した感情は置き去りのまま、熱に侵された身体だけが相手の望む通りに追い詰められていく。
それは痛みというには曖昧で、快楽と呼べるような昂揚もなくて。
激しく揺さぶられる度、ただ反射的に声が漏れるけど。それさえも嬌声と言えるものじゃない。

全ては手の届かないガラスの向こう。
自分の声も貫かれる感覚も、何もかも･･････酷く遠い････

意識を呑み込もうとする闇だけが、生温く纏わりつくようだった。

 

＊　＊　＊　＊　＊

殴りかかろうとした拳が、ケビンの顔に届く事はなかった。
避ける必要すらない。冷酷に嗤う視線が無言の圧力。
───ヤツがどうなってもいいのなら、と。
行き場を失った拳がゆるゆると降ろされる様に満足して、ケビンは鷹揚な仕草で襟にかかった北見の手を退けた。

「終わったようだな。」
モニターの前に戻り、インターフォンのスイッチを入れた。
「如何でしたか。今夜の趣向はお楽しみ頂けましたか。」
画面の中の男達は、既に各々夜着を整え終えていた。
彼らは病室に響く不意の声に驚きもせず答える。
「あぁ、たまにはこういうのも悪くないね。」
「なかなか良かったよ。次もお願いしたいものだが･･･」
暗がりのベッドをちらりと振り返り
「今度は薬抜きというのは無理だろうかな？やはり全く抵抗が無いのは、少々張り合いが無くてね。」
下卑た笑いに頬を吊り上げた。
「解りました。次回はご希望に添えるよう計らいましょう。」

「ふざけるなっ！！」
北見の怒声が部屋の空気を切り裂くように響いた。
「こんな真似、二度とさせるかっ！！」
スイッチを切って向き直ったケビンを睨み付けた。
だが、射殺さんばかりの視線すらケビンは意に介さない。
「それはヤツ次第だな。ヤツは自分から此処へ来たのだぞ。」
「馬鹿なっ！そんなこ･･と････」
あるものか、と───最後まで言い切るには、ケビンの態度は不可解なほどに余裕に満ちていた。
払拭しきれない不安と焦燥。
「あいつに何をした？！」
「別に。ただあの夜ビデオが回っていたと言っただけだ。」
「テープはあれだけだと･･･」
「嘘はついてないぞ。見せてなどいないし見せるとも言ってない。」
だが、岩永を誘き寄せるにはそれだけで充分だったろう。
「それともヤツに教えてやるか。そんなテープはもう無い、自分が見て燃やしたと。」
ケビンの目が意味ありげな光を孕む。
「ついでに教えてやろうか、その後のコトも。どんな顔をするかな。自分を餌に大事な友人が呼び出され自分と同じ屈辱を味わったと知ったら。」

一瞬、血の気が引くのを感じた。
北見は忌むべき事実を認識せざるを得なかった。自分が今、閉じられた罠の中に居るという事実を。
陰湿で巧妙で容赦のないこの男のやり口に、今更ながら吐き気さえ覚えた。
ダメだ、冷静さを欠くな───頭の中で警告が鳴る。北見は大きく息をついて乱れかけた呼吸を整えた。

「何が望みだ？」
睨み返した双眸は鋭さを失わなかったものの、低く抑揚のない声は圧し殺したつもりの動揺を却って曝していた。
「何も。」
「････え？」
予想外の、突き放すような一言に耳を疑った。
だが、目を見開く北見を余所にケビンは廊下へのドアに歩み寄り、大きく開け放した。
「さぁ、ショーは終わりだ。」
皮肉たっぷりの口調は、北見の動揺を嘲笑う。
「君はお忙しいのではなかったかね。」

動けなかった。もはや取り繕った平静など何の意味の無かった。
この男が何の目的もなく、こんな手の込んだ事をする筈がないのに。
だが、今目の前で酷薄な笑みを刻む男は、まるでただ単に北見の困惑を愉しんでいるとしか思えない。
相手の意図を読めなくて、次の手を見失っていた。
「････岩永は、何処だ･･････あいつを･･･」
結局、同じ言葉を繰り返すしかなかった。しかし、それさえもこの男のシナリオなのか。
「どうするつもりだ。貴様が連れて帰るか。そして？」
それ以上言葉のでない北見を、愉快で堪らないといった表情で見下す。
「介抱して慰めて。お前のやった事は全部知っていると教えてやるつもりなら、それでも構わんが。」
ただ唇を噛み締めるしかなかった。

「黙って帰るがいい。貴様に出来る事は何もない。今のところはな。」
選択肢はもう残されてはいなかった。

「ヤツの事なら心配するな。明日の朝には病院に送り届けてやる。」

背後で扉の閉ざされる音が響く。

 

立ち尽くす足下から冷たい闇が這い上ってくるような気がした。