漆黒の天空に星は見えず。
ただ僅かに欠けた月のみが作り物のように貼り付いていて、ゆるりと見上げた男の顔を照らし出す。

「意外に、愉しませてくれたな。」

冷たく硬質な光が、昨晩を思い出して込み上げる笑いを浮かび上がらせた。

ヤツがこれ程の手札に使えるとは、正直思っていなかった。
ウチにいた頃は大人しそうな顔をして何かと楯突く、目障りな存在。その程度の認識だったが。
あのプライドの塊のような外科部長に対しては、この上ないジョーカーとなったようだ。

手にしたグラスの中の琥珀色に視線を戻し、男は満足げに目を細めた。

 

                              ＊　＊　＊　＊　＊

ビデオの存在を仄めかした呼び出しに、岩永は応じるしかなかった。
たまたまビデオがまわっていた、などと言うケビンの言葉を簡単に信じた訳ではない。いや、信じたくはなかった。
だが、かつて短期間ながらＫＺ病院で勤務し、特別室のモニター体制も知っている。完全にその存在を否定しきれなかった。

思い詰めた表情で理事長室に足を踏み入れた岩永を、部屋の主の勝ち誇った笑みが迎える。
来るべきではなかったと、岩永はすぐに後悔した。
傲岸な態度で飲み物を勧める男は、人を傷付ける事に恐らく何の痛みも感じはしないのだ。
そう思うと、同じ部屋で対峙する事さえ耐え難い気分だった。一刻も早く話を終わらせて、逃げ出したかった。
「もうこれ以上･･僕に何の用があるんですか･･･」
だか、意を決して話を切り出そうとする岩永をはぐらかすように、相手はその言葉を制した。
「まぁ、少し落ち着きたまえ。話はそれからだ。」
不安と怯えと憤りが入り交じった瞳が睨み付けるのを、気にかける風もなく悠々と自分のコーヒカップを手に取った。

「さて････そろそろ本題に入ろうか。」
切り出したケビンの前で、岩永は崩れ落ちるように床に座り込んでいた。
「･･･な･･に？･････コー･･ヒーに････？」
気付いた時には遅かった。
身体を支えようとソファに縋り付いても、力が入らない。
じわじわと思考に纏わりついてくる霧を振り払おうと必死で頭を振っても、無駄な努力だった。
やがて感覚も感情も輪郭を失い、恐怖すらも麻痺し始める。
今にも途切れそうな意識の糸を懸命に繋ぎ止めようとするその喉元を乱暴に掴まれ、引き上げられた。
半ば虚ろな目の前を、青く冥い瞳と歪んだ笑いが揺れる。

「知られたくないのだろう。協力してやってもいいぞ。」

言葉と裏腹に服従を強いる声が、耳の奥に鈍く響いた。

「貴様もこちらに協力してくれるのならな。」

 

                              ＊　＊　＊　＊　＊

「気の毒なことだ･･･」
言いながら、憐憫の欠片もない笑いが頬を吊り上げる。

───本人は気付くまいな。
気付いたとしても、迷惑以外の何ものでもないだろうが。
子供が蝶の羽を毟って悦ぶような類の嗜虐性を持つ者にとって、どうやらヤツはお誂え向きの蝶らしい。
怯え泣き叫ぶ声が狂宴に相応しい極上の供物となる。
次は薬抜きで、とリクエストした連中の気持ちが解るというものだ。

それはあの男にも言えることか。
弱みを見せまいと健気に平静を装い、それでもなお隠せぬ怒りに震えて睨みつけた瞳。
それをにべもなく撥ねつける快感。
そう、これまでは、こちらが要求しては撥ねつけられ、あるいは一時叶ったとしても最後に砂を噛むような挫折感を味わわされてきた。
それがどうだ。
向こうから取引を口にし、撥ねつけられる屈辱に耐えねばならないのだ。
自信と誇りに溢れていた顔が青ざめ、屈辱と無力感に打ちのめされて、唇を噛み締める。
思い出せば、琥珀色の香りと相俟って官能的でさえある。

他人の為にこそ膝を折る事を厭わないというそのプライド、何処まで保つか楽しませてもらおうじゃないか。
『氷凍のメス』が砕け散る様は、さぞかし美しいだろう。

「ククク････」
喉を潤す芳香と共に、残酷で甘美な酔いが体に染み込んでいく。
その顔を照らす冷白な光を放っていた月は、いつの間にか忍び寄った雲の影に消えかかっていた。まるで闇に呑まれゆくかのように。

───待っていろ、ジュンジ。
貴様が手塩にかけて磨き上げたものをこの手で粉々に打ち砕いてやる。

そうとも。まだ負けではない。
せっかく手に入れた切り札。せいぜい有効に使ってやるさ。

────さて、次の『夜会』はいつにするかな。