迷 宮
「何かあったのか?」 カタカタと、いつもの音が医局に響く。 「何かあったよな。」 カサリと紙を繰る音がして、再びカタカタとキーが鳴る。 「・・・・・岩永先生と。」 カタ。 「・・・・・・・・」 「あいつも何か、おかしいんだよなぁ。」 止まった手元と、北見の顔を見比べながら、森が窺うように言う。 「・・・・・・・・」 けれど、「知らねぇ?」と尋ねた時にはもう、細い指はキーボードを滑っていた。 + + + + +
「どうかしたか?」 尋ねながら、煙草に火を点す。 「しませんよ。」 髪を掻き揚げて、北見が答えた。 その様子をちらりと横目に、安田は紫煙を吐き出した。 北見の様子はどこかおかしい。 いや、どこかではなく、目に見えて・・・・だ。 こうして肌を合わせていても、気は漫ろ。展望バーでの会話も途切れっ放しで、ホテル自慢の夜景にすら、一度も視線は向かなかった。 「何があった?」 「何も。」 答えは短い。 「嘘つけ。」 青白い顔色。明らかに痩せた。 病院は、ここ暫く落ち着いている。休憩も休日も規則的に取れていると、当の本人からの定時報告にあった筈だが。 「その顔で、『何も』はねーよな。」 「何もありません。」 視線を僅かにも向けずに、北見はそう即答した。 「北見。」 強い口調に、瞬間堅い空気が流れたが、 「・・・・おやすみなさい。」 北見は安田に背を向けた。 + + + + +
おかしい、と気付いたのは、北見の方が先だった。 からかい半分の口説き文句に、感心を示さないのはいつものことだが、ここ最近は呆れ顔と言うより上の空で、その上、視線だけがちらちらとひとりの人物を追っている。 ――――コンコン と、ノックの音がした。 「どうぞ。」 返事を返すと、部長室の扉が開く。顔を覗かせたのは、その『ひとり』。 「失礼します。」 「何だ?」 「はい。この患者さんなんですが。」 ペンを置いて顔を上げると、カルテを持った岩永が近寄って来る。 「あぁ。」 手を出して受け取ったものの、視線はそこへは落ちなかった。 「・・・・・どうかしました?」 目を離せずにいると、首を傾げた岩永が微笑う。 「僕の顔に何か付いてます?」 クスクスと高い声すら立てて―――楽しげに。 ・・・・あぁ。 それですべてに、合点がいった。 ここ数日、抱え続けていた違和感の正体に。 何かが、あった。 そう気付いたのは、北見にだ。 普段なら鋼鉄に見える仮面は、実は案外と脆くて薄い。 見る者が見れば解かり易い表情は、明らかに何かを抱え込んでいた。それも、技術や努力では解決出来ない厄介事。例えば、最も苦手な・・・・人間関係。 そう思う内に、また気付いた。 光華の薄れた瞳が、無意識の内に向かう先。そして、その先の人物が纏った言い知れぬ違和感に。 岩永は、笑っていた。 いつもと寸分違わぬ笑みで。 擦れ違う度、呼び止める度、そこには完璧な笑顔があった。 「何ですか?」 「・・・・あのなぁ。」 「はい?」 屈み込んだ頭を、腰を浮かせて引き寄せる。 「・・・ぇ? ・・・ぁ・・ちょ・・・っん・・・・」 立ち上がった弾みで蹴り飛ばした椅子が、壁に当ってガチャンと大きな音を立てた。 「おっと・・・」 「・・・もう、何するんですか。」 驚いて振り向いた隙に、岩永が腕を擦り抜けて―――笑う。 触れたかどうかも分からない、掠めるような一瞬のキス。 いつもなら赤い顔で逃げ出す冗談は、軽い一笑で躱された。 「ホントにもう、あなたって人は・・・・」 言いながら、困った様子ひとつなく。
感情のない綺麗な笑み。
見慣れた笑顔を纏った他人。 |