どうすれば良かった？

どうしたら、あいつを助けてやれた？

見つからない答えを探して、頭の中で堂々巡りする。
出口の無い迷路の中。
自分自身さえ身動きがとれない泥沼に囚われたまま。

そして眠りを拒んだ夜の後、やがて訪れた朝日は
柔らかに、鮮明に、己れの罪を曝し出す。
逃げる事は許されない。
偽りの、それでも護るべき“日常”が待つその場所から。

＊　＊　＊　＊　＊

「お早うございます。」
その朝も、岩永はいつもと変わらず微笑っていた。
いつものようにその日の手術の予定を確認して、遅刻ぎりぎりのテルに呆れて。
其処にあるのは、見慣れたヴァルハラの“日常”。
―――あれは在りもしない幻だったのか。
そんな虫のいい錯覚を覚えてしまうほどに。

「････あぁ、お早う。」
だが、それは所詮錯覚にすぎないと、あの男の嘲笑が聞こえた気がした。

 

手術が終わり、スタッフ達が手術室を出て行く。
「どうしたんスか？」
なかなかモニターの前から立ち上がろうとしない岩永に、テルが声を掛けた。
繕った笑顔で「何でもないよ」と首を振る姿に、テルの顔が曇る。
「疲れてるんじゃないスか。少し休んだら･･･」
いつもなら、大丈夫だとすぐに笑ってかわす筈なのに。自覚があるのだろう、珍しく返事を躊躇う。
答えに窮しながら立ち上がった身体が不意に傾いで、慌てたテルの腕が支えた。
「やっぱり疲れてるんでしょう。ねぇ、休んで下さいよ。」
懸命に訴える視線に、岩永は申し訳なさそうに笑い返す。
「分かったよ･･････じゃあ、少し休むね。」
安堵半分、心配半分で見上げるテルを宥めるように、肩を軽く叩くと「何かあったら起こして」と言い置いて、手術室を後にした。

仮眠室に向かうその後ろ姿を見送ったのは、テルだけではなかった。

 

静かに、北見は仮眠室のドアを開けた。
中にいる人物を決して起こすことのないよう細心の注意を払って。

術着のままの岩永は、投げ出すように下段のベッドに身体を横たえていた。
毛布を手繰り寄せる手もそこそこに眠りに落ちたのだろう。
手術の疲れとは別の憔悴がその寝顔を縁取る。

此処にこうして立ったところで、突き付けられるのは後悔と負い目。
それでも来ずにはいられなかった。声を掛けることすら出来ず、ただ見下ろしているしかない自分の無力さに歯噛みするだけだとしても。
───もう、やめろ･･･と。
ヤツの言いなりになることはない、と。
肩を掴んで言ってやりたいのに。
言えない状況を作り出したのは、自分自身なのだ。
不用意にあの男の呼び出しに応じ、付け入る隙を与えた結果がこれだ。岩永を助けるどころか、為す術なく見捨てたも同然で。
「すまない････」
聞こえる筈もなく、聴かれてはならない言葉を小さく呟いて、ベッドの傍に身を屈めた。

ベッドの縁に腰掛けると、きしりと微かな音。
その音にか、僅かな振動にか、反応した瞼が小さく震えた。ゆるりと開いた瞳は酷く心細げに揺れる。
「ぁ･･悪い。起こした････」
焦点を得ず彷徨った視線がぼんやりと北見を捉えた。
「･･････いわな･･が？」
だが、覚めきらない意識で紡いだのは、僅かに動いた唇から漏れた音のない言葉。
声にならない声。

───── 　た　す　け　て

「岩永っ！」
思わず腕を掴んでいた。
途端、弾かれたように覚醒した岩永は、目の前の北見を認識する。
「きた･･･み･･先生･･？･･････あ、急患ですかっ？！」
慌てて起きあがろうとして、肩を押し止められた。
「違うんだ、すまん。」
「ぇ････でも･･？」
戸惑い訝しむ瞳から無意識に視線を逸らそうとする自分が情けなかった。
半ば強引に毛布を掛け直してやり、その視線を遮るように枕の上に戻した頭に手をやる。
「起こして悪かった。大丈夫だから、もう少し寝ていろ。」
岩永はまだ何か言いたげだったが、まるで子供をあやすように髪を撫でる指に一言「はい」とだけ答えて、大人しく目を閉じた。

それでもやはり、気掛かりを鎮めることは出来ず。
「あの、･･････何かあったんですか？」
立ち上がってドアへ向かう北見を、岩永の声が引き留める。

こんな時にも自分を心配する友人に、ぎこちない笑顔を作って「何でもない」と答えるしかなかった。

＊　＊　＊　＊　＊

指定されたのは、最高級に類するホテルだった。
あれから幾日経ったか。何の動きも見せないケビンに焦燥を抑えきれなくなる頃合いを見計らったようなタイミング。
依然として向こうのペースに引き擦られている苛立ちは拭えない。が、決意を秘めた北見に拒否するつもりは無かった。

『もうバカな真似すんなよ。』

───バカな真似じゃない、あいつがこれ以上苦しまずにすむなら。
耳の奥に残る声を振り払うように深く一つ息を吐いて、エントランスに足を踏み入れた。

華やかさと落ち着きを兼ね備えた広いロビーを足早に通り抜け、エレベーターホールへ向かう。
一番奥は上層階まで直行する専用エレベーターだ。
指示された階で降りると、下界の喧噪は欠片も届かない。
スイートルームが並ぶ広い廊下に人影はなく、一人歩く靴音は柔らかいカーペットに吸い込まれていく。
その部屋のドアをノックしてから開くまでの十数秒間が、酷く永く感じられた。
「ようこそ。入りたまえ。」

北見を招き入れると、ケビンはゆったりとソファーに身を沈め寛いでみせる。
「どうした、掛けたまえ。何か飲むかね？」
しかし立ったまま答えずきつく睨み付ける北見に、グラスを翳してからかうような笑いを浮かべた。
「そうか、私と飲むのはもう沢山という訳だ。」
「用件を言え。今度は何だっ。」
乗るまいと思っているのに、焦らすような持って回った言い方に我慢が出来ない。
ほくそ笑んだケビンは、更に焦らすように悠然と手にしたグラスを揺らす。
「君は相変わらずお忙しいようだな。そんなことでは次の夜会にご招待していいものか考えてしまうね。」
ケビンの言葉に、堪えていたものが弾け飛んだ。
「もうあいつに手を出すなっ！」
「人聞きの悪いことを。無理矢理連れてきたりはしていないつもりだが。」
込み上げた怒りで頭の中が灼け付きそうだった。
たとえ表面上それが事実だとしても、岩永が自ら望んで来る事などあり得ないというのに。
だが、今この男を殴りつけても、問題の解決にはならない。それが解っているから、ともすれば振り上げそうになる拳をぎりぎりの理性で抑えるしかなかった。
皮肉なことに、その様子こそがケビンにとってはこの上ない酒興をなしているなどと、考える余裕もなかった。

「そんなに奴のことが心配なら･･･」
にやりと含みのある笑いを向けられる。
「では、いっそ貴様が身代わりになるか？」
「････････」
呼び出す先がホテルだという事からして、こんな展開は容易に予想出来た。
北見は眉を顰めて睨み返し、そして吐き出すように言った。
「･･･いいだろう。その代わり、あいつをもう巻き込むな。」

「ほう。」
殊更驚いた素振りを見せたが、恐らくこれも筋書きなのだろう。
「そうだな。貴様なら見た目だけでも充分悦ぶ連中が相当いるだろうな。だが───」
グラスを置いて立ち上がると、ゆっくりと北見に歩み寄る。獲物との間合いを詰めるような威圧感が、知らず神経を身構えさせる。
そして獲物に爪をかけるように、伸びてきた手が北見の顎を掴んだ。
「愛想が無さ過ぎて使えそうにないな。ヤツは随分いい声で鳴いたぞ。」
値踏みするような視線の中に、嘲りの色が覗く。

「本気なら、自分から脱いでみろ────今、ここで。」

ゆっくりと左手が上がった。
ケビンの手を払い除けると、そのままコートのボタンへと手をやる。
無言で、事務的なまでに淡々と。コートを脱ぎソファの背に投げ置いた。
次いで、肩から滑り落ちた上着も無造作にその上に重ねて掛けられる。

他人を弄び暴力や恐怖で支配する、そんな輩に何をされようと傷つけられるプライドじゃない。それは確信であり、自負でもあった。

努めて平静を装い感情を圧し隠した強固な意志力は、しかしその一言で呆気なく瓦解することになる。
「まぁ、“ヴァルハラの姫君”ともなれば多少の不愛想もご愛敬かな。」
「･･････え？」
その物言いの何かが引っ掛かって、ネクタイを解く手が止まった。

顔を上げ探るように睨み返す。にやにやと嗤う姿に再燃する不安。
続くケビンの言葉が不安の正体を突き付けた。
「せいぜい愛嬌を振りまいてやれ。ジュンジの評判に傷を付けないようにな。」
「･･･ッ？！」
「どうした？まさか“黄金の左手”とその後継者がどの程度の有名人か、自覚が無かったというのではあるまい。」

北見は自分の甘さに愕然とした。
何故こんな事を忘れていたのか。この男の真の標的は、安田潤司なのだと。
そして人は、如何なる事象に於いても自分の後ろに必ず安田の姿を見るだろう。
そう行動してきたのは他なら自分自身なのだから。
「さて、どうするね？」
自分の行動で安田の立場を貶めるような事だけは････

迷路が再び目の前に立ち塞がる。

「もう結構。よく解ったよ。どうやら貴様も、結局は自分が可愛いらしいな。」
愉しげなケビンの声に、我に返った。
「友人を助けたいと言いながら、ジュンジの名を汚して嫌われたくはないのだろう。健気な事だ。」
「そっ･･･違･･････」
違う。自分はどんなことになろうと構わない。そう覚悟していた筈だった。
なのに････。
硬直した指はそれ以上どうしても動かなかった。
安田とヴァルハラの名誉を守るためには、ケビンの要求を呑む事は出来ない。
そうして･･････俺はまたあいつを見捨てるのか────

「強制はせん。せいぜいじっくり考えるんだな。これでも見ながら････」
かたり、と黒いプラスチックケースがテーブルに置かれた。
それがビデオテープだと分かって、北見の顔色が変わる。
「勘違いするな。これは新作だよ、昨夜撮ったばかりのな。」
「昨夜･･だと････？」
「あぁ、確か貴様は当直勤務だったな。ご招待出来なくて残念だよ。」

からかうような言葉がにわかには信じられなかった。
脳裏を、今朝の医局の光景が掠める。
穏やかな笑顔、普段通り交わされた挨拶。それが全て、前夜の悪夢を気付かせない為の哀しい演技だったというのか。

「尤も、私に借りを作るのは嫌だろう。ビデオ代くらいは貰っておこうか。」
無遠慮な手が解きかけのまま放置されたネクタイに伸ばされた。シュッと音を立てて引き抜くと、無造作にポケットに入れる。
抗うことすら忘れたように呆然と立ち尽くす耳元を、すれ違いざま冷酷な声が掠めた。
「この次までに覚悟を決めておけ。」

ぐらり―――と、世界が崩れ落ちた。
そうではなく、自分の膝が頽れたのだと気付くのに数秒かかった。

静寂が心臓を締め付ける。
圧し潰されそうで、立ち上がることが出来なかった。