蓮の気紛れで入ったパブだった。

「珍しい選択だな。」
「そぉ？ いーんじゃない、偶にはこんなのも。」
建て付けの悪い扉を潜った途端に飛び込んで来たのは、粗野な男達の笑い声と安酒の匂い。天井付近には、霧のように煙草の煙が漂っている。
「いらっしゃい！」
愛想の良いウェイトレスが勧める椅子も、ギシギシと軋んでお世辞にも座り心地が良いとは言えなかったが、長かった戦争の終わりを感じてか、店内には明るい空気が満ちていた。
「何にします？ 今日のお薦めは、じっくり煮込んだラムのシチューよ。」
「そぅ。じゃあ、それね。それから、一番良い赤ワイン。」
「･･･ぁ･･は、はい･･･お待ち下さいっ！」
ニッコリと微笑み掛けられて頬を染めたウェイトレスは、我に返ると恥ずかしそうにトレイを抱えて駆け去った。
「お前なぁ･･･」
相変わらずの蓮の様子に呆れながら、北見はぼんやりとさして広くはない店内を見回した。
飾り気のない雰囲気に何処か懐かしさを感じた。
かつて前線近くにいた頃、よくこんな町中の小さな食堂で食事をした。
全部で３０席ほどだろうか。中央の細長いカウンターの他には、テーブルが６つ。それなりに繁盛しているらしく、食事時には少し早いが、カウンターの２席以外は埋まっていた。
店員は、さっきの彼女を含めて三人。カウンターでシェイカーを振っている店主らしき男の他にもう一人、ウェイターをしている若い男が居るようだ。
客から酒を勧められているらしく、困ったように断る声が聞こえた。
「すいません。僕、ホントにお酒弱いんで････」

･･･ガタッ！！

思わず立ち上がったのは、パブの店員らしからぬ答えだったからじゃない。
そうではなくて――

突然の大きな物音に、男もこちらを振り向いた。

「･･北見･･･先生？」
「････いわ･･なが･･？？」

真白いエプロン姿でこちらを見詰める男は、間違いなく数年前に死んだ筈の心優しい戦友だった。

ぱっと輝いた笑顔がテーブルに歩み寄ってくる。
「来てくれたんですね、北見先生。」
嬉しそうに目を細めるその顔も、声も、記憶の中と寸分違わない。でも――
「あ･･お友達がご一緒でしたね。」
どうぞごゆっくり、と控えめに会釈してカウンターに戻る後ろ姿に、北見は空ろな相槌を打つしか出来なかった。
「ふ〜ん、“いわなが”ねぇ･･･」
腰が抜けたようにストンと椅子に落ちた体が、漸く我に返った。
「いや･･･違･･」
「死んだんじゃなかったの？」
「･･･そうだ。死んだ。」
青ざめた瞳は、かつて味わった絶望を思い出して揺らぐ。
「俺の目の前で････腕の中でアイツは････」
「でも、幽霊が働いてるようには見えないけど。」
蓮は冷静な視線で、料理を手にカウンターとテーブルを行き来する青年を観察している。
北見も、動揺を懸命に圧し殺しながら、その姿を目で追った。

やがて蓮達のテーブルにも、ワイングラスとパン篭が運ばれてきた。
栓を抜かれた瓶から、蓮のグラスにルビーのような輝きが注がれる。
「うん、悪くないね。ウチのセラーに負けてないよ。」
一口味見した蓮が片目を瞑るのを見て、岩永はほっとした様子で北見のグラスにも注いだ。
瓶を置いて岩永がテーブルを離れると、北見が潜めた声で囁いた。
「お前が女性以外にお愛想を言うとはな。」
「そうでもないよ。飲んでごらん。」
言われて口に含んだ液体は、予想もしなかった芳醇な香りを残して喉を滑り落ちていく。
「美味しい･･･」
もともと美食なぞには縁遠い育ちだと思うが、今や蓮に付き合って同じ物を食べているだけでも、知らずに口が驕ってやしないか心配になるような食生活の毎日だ。
これが少なくとも安酒場常備のテーブルワインじゃない事だけは判る。
間もなく運ばれてきたシチューも蓮の口に合ったようで、満足そうな顔でスプーンを運んでいる。

「さて、もう出るかい？」
料理を平らげた蓮は、手持ち無沙汰に残り少ないグラスの中身を揺らした。
食事中も言葉少なだった北見の意識はずっと、トレイを手に忙しく立ち回る岩永に向いていた。
視線に気付いた岩永が時々笑みを返す。
だが遂に、北見はその笑顔に対して掛ける言葉を見付けられなかった。
「そうだな、･･･出よう。」
ぽつりと溜息のように零すと、立ち上がった。
ちょうど岩永がバックヤードに姿を消したタイミングだった。
北見は無言で、古ぼけた扉をくぐり出た。

すっかり日の暮れた通りを、街路灯が転々と照らしている。
黙ったまま連れだって数メートル歩いたところで、突然蓮が立ち止まった。
「あ･･と、手袋が片方無い。店に落としたかな。」
ちょっと待ってて、と北見を残し、とって返した。
戻って扉に手を伸ばしかけたちょうどその時、扉の方が勝手に開き岩永が顔を出した。
「あっ、良かった。これ、お忘れでしたね。」
人の良い笑顔で差し出したのは手袋の片方だ。
「あぁ、ありがとう。」
負けず劣らず人を魅了する優雅な笑みで応えた蓮は、不意に手袋ごと差し出された手を握って引き寄せた。
「キミ、俺の事は覚えてない？」
「え･･ぁ･あの･･･」
店内から溢れる飴色の灯りを弾いた琥珀の瞳が間近に迫る。
目を瞬かせてどぎまぎする顔をしげしげと眺めてみても、目の前にいるのは何の変哲もないただの男だ。
「ふうん、やっぱり幽霊じゃないのかぁ？」
手袋を引き抜くとつまらなそうに呟いた蓮に、岩永は眩しげとも淋しげとも言いようのない微笑みを浮かべた。
「貴方は手を伸ばして――掴めたんですね。」
「え？」
するりと擦り抜けた手が扉を閉じる間際聞こえた一言は、木霊のように不思議な響きを含んでいた。

「あの人を･･お願いします。」

＊　＊　＊　＊　＊

昨夜と同じ裏通りを探し当て、見覚えのある街路灯の下に辿り着いた。
だが―――
「無い････？」
あの古ぼけた扉は何処にも見付からなかった。
「そんなバカな･･」
北見は思わず声を上げた。
場所は此処に間違いない筈だ。
だが、伸ばした指先には冷たく硬い石壁が触れるだけ。扉も看板も、その痕跡すら見当たらない。
呆然と壁を見上げた北見の背後に、近付く気配がした。
「無駄だよ。」
「蓮･･･」
振り向いて気まずそうに視線を逸らした北見に、蓮は腕を組んだまま戯けるように肩を竦めてみせた。
「“そんな店、この通りに無いよ”ってさ。」
「そんな筈は･･･お前だって一緒に入ったじゃないか。」
「まぁね。でも無いものは仕方ない。それともあの店にそれほどの用でもあるの？」
顔を覗き込まれ、戻った瞳がまた逸らされた。
その横顔に溜息をついた蓮の耳を、昨夜の木霊が掠める。
よほど心配だったんだろうけど。『お願いします』なんて言われてもねぇ。
自分が、幻影一つ現れただけで意識から置き去られる存在だったとは。
けど、そんなに引き摺るなら何故あの時あの場で確かめなかった？―――なんて事は、思っても口にしないでおくさ。平手が飛んできそうだから。
過去の男の話で殴られるなんて無様はゴメンだ。
「行こう」とだけ言って立ち去り難い肩を促し、表通りへと歩き出す。

掴めたと言えるかどうかは、些か早計かもね････

ちらりと見返った蓮は、何もない石壁に向かって僅かに苦笑した。