そのパブは、小さな鉱山町の小さなメインストリートにある、こぢんまりとした店だった。
昼の賑やかなランチタイムが終わると、のんびりとした午後が訪れる。
そして夕刻からは一日の仕事を終えた鉱夫達がやって来て、再び賑わいを見せる。
酒が入った男達の話し声で騒がしい店内の隅のテーブルに、少年は居た。
少年と呼ぶにはもはやそぐわない大柄な体格に日焼けした肌は、周囲の鉱夫達と比べてもそう見劣りしない。
しかし鉛筆片手にノートに向かう表情は間違いなく十代の少年であり、夜のパブには些か不似合いな存在だった。
「おい韮坊、宿題は済んだか？」
「こっち来て飲めよ。奢ってやるぜ。」
周囲の男達が冷やかし半分に誘う。
すると
「ダメですよ、この子に飲ませないで下さい。」
カウンターでコーヒーを受け取った青年が呆れ声で咎めた。
「ほうれ、岩永センセに怒られちまった。」
どっと笑いが湧く中、彼は２つのコーヒーカップを持ってテーブルに戻ると、片方をノートの脇に置いた。
コーヒーから青年の顔へと視線を上げた韮崎が不服そうに口を尖らせた。
「そげん子供扱いせんで下さい、岩永さん。」
「何言ってるの、未成年でしょ。お酒はダメ。それより問題は解けた？」
向かいに座った岩永にノートを差し出すと、「酒ん事やなかとに」と呟いてカップを引き寄せ揺らす。
小さな呟きには気付かず、岩永はノートに書かれた答えを一つ一つ見て丸を付けていた。
「うん、全部正解だね。じゃあ今夜はこれで終わろうか。」
ノートを閉じると、岩永もカップを手に取り一口啜る。
「今日は疲れたでしょう。６番坑でトラブルがあったらしいね。」
もう宿舎に帰る？と訊くと、韮崎は首を振った。
「まだよかです。それより岩永さんこそいつも付き合うてもろて･･･」

きっかけは他愛ない質問だった。
『これ、何て読むとですか？』『どういう意味やろか？』
休憩時間やパブでの夕食後、寛ぐ岩永に韮崎はちょくちょく話しかけてきた。
岩永が読んでいる本を覗き込んだり、大人達の読み古した新聞を手にして。
一通りの義務教育を経た韮崎の質問は、同僚の鉱夫達が答えるには些か難解なものも少なくなかった。
少年らしい好奇心を煩がらずに相手してやるのは、結局岩永くらいしかいなかったのだろう。
――僕も･･･もっと勉強ばしたかなぁ――
ある日ふとそう漏らした韮崎に、岩永は教師役を買って出る事にした。
基礎的な学力はもちろん、鉱山技師として専門知識もある岩永なら、鉱山労働に必要な知識を教えるのに不自由はなかった。
そうして日勤が終わって夕食後のひとときを使い、ささやかな勉強会が始まった。
鉱夫仲間達は当初「鉱夫が勉強なんかしてどうすんだ」とからかったものだった。
教育の機会も乏しく体力と経験を頼りに生きてきた男達が殆どだ。今でも冷やかしこそする口の悪い連中だが、それでも次第に自分の子供ほどの年頃の意欲をそれとなく見守るようになっていた。

「僕なんて大した事してないよ。空いた時間を使ってるし気にしないで。」
おっとりした笑みで答えた岩永は、腕の時計をちらりと見た。
「そうだね、まだ休むには早いかな。」
「あ、それじゃあ、またコレ････良かですか。」
韮崎は棚に立て掛けてあった二つ折りのチェス盤に手を伸ばした。
客なら誰でも利用出来るよう店がサービスで置いている安物のチェスセットなのだが、客層のメインである鉱夫達にはルールの単純なカードゲームやダーツが好まれ、あまり使われた形跡はない。
ここ最近、興味を覚えた韮崎が勉強会が終わった後の岩永に相手をせがむようになって、漸く日の目を見た形だ。
「うん、いいよ。」
快諾した岩永は受け取ったケースから年季の入った駒を取り出し、広げられた盤の升目に列べていく。
「そう言えば、実家の様子はどうなの？」
初手のポーンを動かした岩永が訊いた。
「はい、皆元気やてゆうちょりました。牧場の方もなんとか――」
その時、店の入口の扉を開いてどやどやと軍服姿のの男達が数人入ってきた。
既に顔馴染みらしくマスターと目線だけの挨拶を交わすと、空いたテーブルを見付けて陣取り雑談を始めた。
チェス盤を挟んだ二人は、一時増した騒がしさに、しばらくは黙ったままコツン、コツンと交互に駒を動かし続けた。
会話が中断され多少不満なのだろう韮崎は、少年らしい正直な視線で寛ぐ男達をちらちらと見ている。
くすりと笑った岩永がコンコンと駒を鳴らして韮崎の気を引き戻した。
「それで？牧場の方も上手くいってるって？」
「あ、はい･･･一時はどけんなるか心配やったですけど。この分ならもうすぐ移転前の頭数まで持ち直せそうやて。」
「そう、良かったね。」
やがて次第に店内の騒がしさも落ち着き、何事もなかったように会話も続く。
「じゃあ、手伝いに戻らなくて良いの？」
「良かとです、手は足りちょるようやし。それに僕この町も好いとりますけん。」
「嬉しいね。でも時々は元気な顔を見せに帰ってあげた方がいいよ。」
「はい･･･ん？･･あれ？」
頷いてルークを手前に戻した韮崎は、盤上の形勢が固まりつつあるのに気付いた。
相手のクイーンとビショップがキングの位置を脅かしている。
どちらを先に制すべきか。迷いながら伸ばした手が止まってしまった。
もう一つ、敵のポーンがいつの間にか自陣の最奥にまで。
「これってもしかして――」
「そう、詰みだね。」
にっこり笑った岩永の言葉に、韮崎は大きく溜息をついて両手を挙げた。
「あ〜ぁ、また負けてしもたばい。」
「でも上達早いよ。才能あるのかも。」
「ホントやろか？」
嬉しそうに「もう１回」と駒を並べ直す韮崎を見て、岩永は穏やかに頷いた。