「おっはよう！！」
毛布を引っ剥がされた森は、朝のきつい陽射しに顔を顰めた。
熱帯の太陽はこの時間から既に空気をいつもの暑さに仕立て上げる。
ソファで寝ていた森を叩き起こすトイもまた、いつもと変わらない顔を取り戻していた。
「ドクターもうすぐ帰っちゃうんだよね。」
「あぁ、俺は助っ人みたいなもんでな。今度来る奴がホントの担当だよ。」
「ふ〜ん。」湯を沸かしながらつまらなそうに口を尖らした。

「僕ちょっと家に帰ってくるね。」
朝食の準備をし終えたトイは随分と嬉しそうに見えた。
「何だ、メシくらい食ってけばいいのに。」
珍しいくらいの笑顔を森がからかうと、
「もしかしたら、いい事があるかも知れないんだ。」
そしたらドクターに一番に教えてあげるよ──そう言い残して、トイは帰っていった。

もうすぐ日本へ帰る。そのことを森は改めて思い出した。
自分が帰ったらトイはどうするかな。
頭の良い子だ。もうバカな真似はするまい。
正式にスタッフとして雇ってもらうことも不可能ではないけれど。
ここで雇うのと、学校に通わせるのと、どっちがあいつのためになるだろうか。
「そりゃ、学校に行かせる方がいいと思いますよ。」
現地スタッフの青年は即座に答えた。彼自身、経済的事情で一時進学を諦めかけた経験があるからだろう。
それはこの国の子供達の多くが突き当たる壁でもある。
「あの子だったら学校へ行けば奨学金も期待できる。そうすれば大学だって夢じゃないですよ。」
「そうだな・・・」
明日、トイが来たら話してみるか。学校へ行く気はないか、と。

だが翌日、トイは姿を見せなかった。
森は妙な不安を覚えた。
別に約束したわけではない。何か用事が出来たのかも知れない。
そうだ、いい事があるかもなんて言っていた。
一日くらい来なくたって・・・・・・だが。
「今日は手伝えないよ。」と、それだけを言うために顔を出しに来た日だってあったのに。

「なぁ。お前さん、トイの住んでる村知ってるよな。」
教えてくれよ、と言う森に、青年は「送りますよ、ドクター。」と笑って答えた。
「村だけ教えたって、あなた一人じゃトイの家を捜せないでしょ。」

次の日もやはりトイは来なかった。
森達は診療時間が終わるとすぐに出掛けた。
青年が促したのは自分のバイクだった。
「車、使わねぇのか？」
「こっちの方が良いんですよ。車はハマると厄介ですから。」
その意味が分かるのに、走り始めてからそう時間はかからなかった。
広大な水田地帯に挟まれた一本道は道幅こそ充分にあったが、其処此処に抉れたような大小の穴が無数にあいている。さながら月面のクレーターのような状態だ。
「これでもましな方ですよ。雨期の真っ最中だったらこんなもんじゃあ。」
青年は器用なハンドル捌きで大穴を避けながら、後ろでしがみつく森を振り向いて怒鳴った。
「舌噛まないで下さいね！」

僅か２０分のドライブで疲労困憊気味の森をバイクに残して、青年は道を確かめに村の雑貨屋へ入っていった。
かつては相当な僻地を４ＷＤ車で駆けずり回ったこともある森だが、バイクでというのはあまり経験がない───第一、あん時ゃあ、もうちっと若かったしな。
「トイの奴、毎日あんな道歩いて通ってたのかよ・・・」
森は大きく溜息をついて陽が傾きかけた空を見上げた。
あんな道を暗くなってから走るのは、出来ればご免被りたい。
店から出て戻ってきた青年に「急ごうぜ」と言いかけて、森は彼の様子に気付いた。
何かを言おうとして言い倦ねて、ただ辛そうに森を見ている。
｢どうした。何かあったのか？｣
「ドクター・・・」
彼は重い口を開いて森に告げた───トイが死んだ、と。

小さな真新しい祭壇と香の匂いは、『死』が事実であると端的に語っていた。
トイが逝ったのは一昨日のこと。
悪路で転倒した大型トラックの事故に巻き込まれたのだ、と世話役の老人の説明を青年が訳した。
葬儀は昨日のうちに済ませられ、既に家の中は閑散としていた。
手を合わせて帰ろうとする森を再び老人が招いた。

トイの姉だという女性に引き合わされた。
穏やかでもの静かな面差しはトイとよく似ていたが。
「でもあいつ、家族は誰もいないって・・・」
彼女はトイがまだ幼い頃に町へ売られたのだという。
長い間、家族はその仕送りで食べていた。
「トイは私に手紙を書くために字を覚え、家族や村のことを伝えてくれました。あの子が一人になってからは『仕送りはいらないから、そのお金を貯めて自分を買い戻して村に帰ってきて』と言ってくれて・・・」
そして漸く村へ帰れるようになった矢先だった。
「最近の手紙にあなたのことが書いてありました。とってもいい人が村に来たと。優しくて頼りになってみんなに好かれてる立派なお医者様だと。」
溢れ出た涙が彼女の頬を伝った。
「学校に行けたら医者になりたかった。今からでもなれないかな・・・と。」
彼女は顔の前で両手を合わせて静かに深く頭を下げた。
この国で最も美しい感謝の表現だった。

「トイを・・・・・・ありがとうございました。」

翌日、新任の医師がやって来て引き継ぎを済ませた。
明日には日本に帰り、俺はまた変わらない日常へと戻る。

たぶん、もうこの国に来ることはない。

 

　　　『ねぇ、ドクター。僕のこと好き？』
　　　『あぁ好きだよ。』
　　　『それって、僕がドクターの好きな人に似てるから？』
　　　『んー・・・それもあるかな。』
　　　『正直だね。』
　　　『そいつが取り柄さ。』