小舟はやがて船着き場に着いた。
渡り板に上がると、草を踏み分けた小道が建物へと続いている。
ちょっと躊躇した後、僕は一歩足を踏み出した。
その時――
ザァァ･･･と強い風が吹いたかと思うと、急に空が真っ暗になった。
降る、と思った次の瞬間にはもう、バタバタバタッと激しい音を立てて大粒の雨が落ちてきた。
「君もおいでよっ。雨宿りしよう！」
咄嗟に少女の手を掴んで陸に引き上げた。
そして数歩と走らない内に、それに気付いた。
―――濡れてない･･･？
バケツをひっくり返したようなこの土砂降りの雨なのに。
掴んだ彼女の手も、そして僕の手も全く濡れていなかったから。
雨の冷たさも雨粒の感触も確かに感じるのに、実際には僕の身体を擦り抜けるみたいに、雨は髪にも服にも雫一つ残さず地面に落ちる。
それで僕はやっと判った。
―――あぁ、ここは･･･きっと現実じゃないんだ
怖いとは思わなかった。
ただただ不思議で、少しの間濡れない雨を見上げていた。
少女はくすりと笑うと、突っ立った僕の手を引いて歩き出した。
「行きましょう。ドクターに会わせてあげる。」

中に入った僕達を見咎める人は誰もいなかった。
多分僕たちの姿は見えてないんだ。
それに中は今、大変な状況になっていた。
次々と怪我人が運び込まれてくる。
運ぶ方も運ばれる方もずぶ濡れで泥だらけ。
ベッドは足りず、残りは狭い病室の床に毛布を敷いて寝かされている有様だ。
その人達を懸命に手当しながら、周囲に指示を飛ばす白衣の人物が居た。
「森先生っ？！」
思わず声を上げた。もちろん彼にも、他の人達にも聞こえなかったようだけど。
よく見ると、僕が知る森先生より少し若い気もする。でも間違いなく彼だ。
―――どうして森先生が？
再び色んな疑問が湧き出す。
ここはかつて彼がＮＧＯで派遣された国の一つなんだろうか？
じゃあ僕は何故今ここに？
それでもそれらはひとまず脇へ置いて彼らを手伝いたかった。
けれどそれは不可能だ。
目の前の光景が夢なのか現実なのか、どちらにしても今の僕は彼らに触れる事も出来ない存在。
焦燥の色を圧し隠して治療を続ける森先生を、歯痒く見ているしかなかった。

「ドクターッ、やっぱりダメだ！橋は三つとも使えねぇっ！！」
突然正面のドアが開いて、男が飛び込んできた。
激しい雨風の中を駆け回ったらしい彼の歩いた後には、たちまち床に水溜まりが出来る。
「道は崩れてないか？」
「川向こうの様子は分からんか？」
取り囲んで口々に浴びられる質問に、男は沈痛な表情で首を振るばかりだ。
「他に方法はねぇのかよッ？町に連れてく方法が？！」
病室から出てきた森先生の問いにも言葉はなく、周りの男達にも絶望的な沈黙が広がる。
「この雨ももう３日目だ。舟も出せねぇ橋も使えねぇんじゃあ･･･仕方ねぇ。」
隅の椅子に腰掛けていた老人がぼそりと言ったのが、唯一返った答えだった。
老人は手にした杖を突いて立ち上がり、それで彼の片足の膝から下が無いのが分かった。
ゆっくりと診察台に歩み寄った彼は、そこに横たわる若い女性に声を掛けた。
女性は薄く瞼を開き、力無くそれでも精一杯の笑みを浮かべる。
「赤ちゃんは･･？･･･私の････赤ちゃん･･」
「無事だぞ、よくやった。名前を考えにゃな。」
「父さんが･･決めて･･･お願いね･･･」
消え入るような声でそれだけ言うと、目を閉じて息をするのも億劫そうだ。
「諦めんなよ、あんた母親だろ！ホアだって帰りを待ってんだろ！！」
駆け寄った森先生が怒鳴り付けた。
けど、どうしようもない状態だと彼も判っているんだ。
命の灯が尽きかけてる彼女を救う術は、もうここにはない。
残る手立ては、一刻も早く設備の整った町の病院へ運ぶしかないというのに。

「また川が溢れたの。」
雨季はいつもそう･･･――僕の横で少女が呟くように言った。
言葉は静かで、ただ僕の手と繋いだ彼女の指が僅かに震えていた。
僕は小さな肩を抱き寄せた。
病院では見慣れた日常。
毎日どこかで繰り返される光景。
押し殺す事に慣れた筈の感情。
だけど今は堪える事が出来なかった。
「ごめんね･･･」
―――何も出来なくてごめんね
少女は不思議そうに僕の顔を覗き込んで、困ったように笑った。
「貴方の所為じゃないのに。」

女性は眠るように息を引き取った。
「ありがとうよ、ドクター。」
老人が頭を下げると、森先生は不本意そうに顔を背けた。
「･･馬鹿野郎････患者助けられなかった医者に礼なんぞ言うんじゃねぇ。」
「いんや、孫だけでも助かったのはあんたのお陰さね。」
老人はそう言って自分の背丈よりも高い森先生の頭に手を伸ばす。
そして彼の頭をゆっくりと撫でた。
まるで幼い息子を慰めでもするかのように何度も。

「私、もう帰らなくちゃ。貴方は？」
少女の言葉に僕は我に返った。
「え？あ、僕も･･･でもどうやって･･」
「大丈夫よ。ほら、もう雨は上がったから――」
言いながら、川へと出る戸を彼女が開け放つ。
途端に、視界が眩い日射しに奪われた。

＊　＊　＊　＊　＊

目に入ったのは白い天井だった。
見慣れた休憩室の天井。
「･･あれ･･･？」
何だろう、何か不思議な夢を見てた様な気がする。
夢うつつの余韻を引き摺ってぼんやりと天井を見上げてた僕の顔を、不意に誰かが上から覗き込んだ。
「よぉ、起きたか？」
「ぅわっ！･･･も、森先生？！」
慌てて飛び起きた弾みに、危うく彼の額に頭をぶつけそうになる。
そして今の自分の状況を認識して、顔から火が出そうになった。

突然の激しい夕立が引き起こした高速道路での大事故によって、その夜のヴァルハラの眠りは奪われた。
多数の重軽傷者が運び込まれ、処置室での手術を余儀なくされる程だった。
やっと全ての重傷者の手術が終了し、中天近くまで上った太陽を見上げてほっと息を吐いたとろこまで覚えてる。
そして満杯の仮眠室を諦めた僕は、休憩室のソファでいつの間にかうたた寝していた。
まさか目が覚めたら彼の膝枕にいたなんて。
「す･･･すみませんっ！」
何故こんな事になったのかちっとも思い出せない。
仮眠室が空いたので声を掛けてくれたのに、僕は寝惚けて「ここでいい」と起きなかったらしいのだけど。
「よく寝てたぜ。良い夢が見られたろ。」
相変わらずにやにや笑いの軽口を思わず睨み付けると、「冗談だよ」と肩を竦めた。
「俺はよく眠れたけどな。」
満足そうに伸びをした顔が、ふと何かを思い出したように口元を緩めた。
「そういや、妙に懐かしい夢なんか見ちまったし。」
それが彼にとってどんな思い出なのか量りかねるような、幾分複雑な笑みで。
気にはなったけど訊いて良いものか迷う僕を余所に、どこか遠い過去の光景を視るように細めた目が誰に言うと無く呟いた。
「爺さん、まだ生きてんのかなぁ････」
「え･･･？」
「いや、何でもねぇよ。」
彼の笑みが、いつもの快活なそれに戻る。
「どれ、ぼちぼち交替の時間だぜ。」
「････はい。」
それ以上は訊けなかった。
けれど―――

僕が視たのは、只の夢じゃない。

密かにそう信じる事にした。

＊　＊　＊　＊　＊

野の花を一握り抱えた少女が川沿いの道を歩いて行くのが見えた。
「墓参りか、ホア？」
森が声を掛けると、振り向いて頷く。
その背には小さな赤ん坊が背負われていた。

村中を襲った洪水の後片付けもそろそろ終わり、村人の生活は日常に戻り始めている。
もともと水害が頻繁な地域。良くも悪くもこの川と共に生きてきた人々の逞しさは、連綿と培われてきたものだ。
年端の行かぬ少女ですら、その瞳にそれは備わっているようだった。