「えっ？・・・アフガニスタン？！」
「そ、アフガン。」
「何でそんなとこに・・・？」

穏やかな陽射しが差し込む食堂。
昼食を終えようとしていた岩永は、相変わらずの遠慮のなさで前の席に陣取った森から意外な言葉を聞かされた。

「あっちで大きな地震があったって、今朝のニュースで言ってたろ。」
「あ、はい。」
「俺、まだＮＧＯの医療ボランティアのメンバー登録してるし。」
「そう・・・ですか。」
聞いたことはあった。以前はルワンダ難民支援でザイールに行ったとか、洪水被害の緊急支援でバングラディシュに飛んだとか。でも『役付きになったことだしもうお呼びは掛からないだろうけど』なんて笑ってたのに。
「それで、いつ？」
「あぁ、今夜の便で。」
「こんやぁ？！」
呆気にとられる岩永を後目に、森は定食を掻き込む。
「じゃあ、ここの仕事は？」
「もう院長の許可は取った。もともとＮＧＯの事も了承してるし。」
「でも・・・」
「まぁ、１０日間くらいのもんだ。みんなにゃちょっと迷惑掛けるんで悪いたぁ思うが。」
「そうじゃなくて・・・」
まだ不安定で、物騒なニュースもたびたび流れる地域。既に日本からもいろんな人間や団体が入って活動していることは知っているが、知り合いが行くとなるとやはり不安は拭えない。
「ん、何だ？」
「・・・・・・いえ、別に・・・。」
まるで国内の学会に出席しに行くのと変わらない態度の森に、岩永は出かかった言葉を引っ込めた。現地の事情や危険性など彼の方が余程よく知っている筈で、何も知らない自分が心配だけ口にしても仕方ない。
「・・・気を付けて。」
「おう。これ食ったら、引き継ぎだけ済ましてすぐに出るから。」
森は残った飯を掻き集めて平らげるや、
「じゃあな。お先に。」
トレイを持って立ち上がり席を去った。

私服姿でロッカールームを出る森とぶつかったのはそれから間もなくだった。
「もう、行かれるんですか。」
「あぁ、後のことは大体頼んだし。」
「そう・・・行ってらっしゃい。」
昼食の時から岩永の笑顔が硬いことに、森は気付いていた。
──無理ないか。
今どき、緊急援助で海外へ赴く医師など珍しくはないが、今回は場所が場所だからな。
心配性のこいつに心配するなって方が無理な話か。
志願制が基本のはずの派遣医療スタッフに、自分なんぞに声を掛けてきたというだけでも人手不足の状況が見え隠れして、つい引き受けてしまったが。
「気を付けて。・・・無事に帰って・・・・・・」
言葉が途切れて、思わず俯く。
森は床に鞄を置くと、岩永の肩を引き寄せ押し包むように抱き締めた。
「そんなに心配すんなよ。すぐ戻るんだから。」
耳元で囁く声に応えるような自然さで、岩永の手が森の背中に回る。
──いつもなら大騒ぎで逃げ出すのに・・・・・・役得ってやつかな。
森は苦笑いを隠して抱き寄せた肩を軽く叩き、そして岩永の身体を手放した。
心配げな視線を宥めるように笑いかけ、
「じゃあな。」
鞄を拾い上げ、背を向けて歩き出す。
岩永は、足早に廊下を遠ざかるその後ろ姿を黙って見送った。

                              ＊　＊　＊　＊　＊

「森先生、今日帰ってくるんですよね。」
内科部長不在の１０日間、内科の忙しさは大変なものだったが、それでも他の科の助けも借りて大過なく過ぎた。
「じゃ、明日から戻ってきますね。」
「いやぁ、あの人のことだから今日着いてその足でここ来るんじゃないの？」
やっと帰ってくる仲間を思うと、みんなの口調も自然と弾んでいた。

しかし、翌日森が病院に姿を見せることはなかった。
そしてその翌日も。
森から病院に連絡はなく、病院職員が問い合わせたＮＧＯの事務局からも正確な情報が入らないとの返事。
誰の胸にも不安は募ったが、それを口にする事は出来ないまま、時間だけが過ぎる。

「岩永。」
肩に手を置かれ、弾かれたように振り向いた。
「あ・・・北見先生。何か・・・」
「来週の手術の事で院長と相談したいんだが、付き合ってくれないか。」
「僕も・・・ですか？」
怪訝には思ったが、自分も立ち会う予定の手術なので断る理由はなかった。

予想通り打ち合わせの間、岩永のすることは殆どなく二人の話を聞きながら時折メモを取る程度だった。
打ち合わせが終わり資料を揃えながら、北見が安田に問いかけた。
「とろこで院長、森先生のことはまだ分からないんですか？」
岩永がはっと顔を上げて北見を見た。
「ん〜、どーもはっきりしないんだわ。被災現地との通信事情がいまいちみてぇでな。」
さすがの安田もお手上げの表情で頭を掻く。
「んまぁ、ドンパチじゃなさそうだって事くらいだな。」
「そうですか。」
ちらりと自分を見た北見に、岩永は小さく会釈を返した。
どうやらこのために自分を同席させてくれたらしい。

諦めた北見と岩永が立ち上がろうとした時、性急なノックもそこそこにドアが開けられ職員が飛び込んできた。叫ぶ言葉より先に、今朝から森の情報集めに電話を掛けまくっていた彼の表情が全てを物語っていた。
「森先生っ、帰って来ました！」
「ホントか？！」
三人がほぼ同時に身を乗り出した。
「確かです。ＮＧＯの現地事務所と連絡が取れたのと、それから・・・今日成田に着いた森先生本人から本部に直接連絡があったそうです。」
「や〜れやれ。心配かけやがって、あんにゃろ。」
安田が大手を広げてソファの背に凭れ掛かり、大きく息を吐いた。
車のトラブルで被災地を離れるのが遅れ、その結果、予定の飛行機をずらさざるを得なくなったらしいと、手短な報告が続いた。
「おう。ご苦労さん。後は本人が戻って来てからとっちめて聞かせてもらうわ。」
誰からともなく笑みが零れた。空気の重ささえ、さっきまでと違うような気がして。

「良かったな。」
短い言葉に安堵感が滲んでいる。院長室を辞して廊下を歩きながら、北見の声に岩永も頷いた。
「えぇ、ホントに・・・・・・北見先生？」
言いかけて、急に立ち止まった北見の横顔を訝しげに見た。
前を見つめる北見の視線のその先、それを辿って岩永の動きも止まる。
廊下の向こうから歩いてくる人物。小振りのスーツケースとやや日焼けした顔。
それがなければ、日帰りの研修会から帰ってきたとしか思えない様子で、よぉっと片手を挙げた彼の姿を認めてから暫くの間、二人とも声が出なかった。
「なぁんて顔してんだ、二人とも。」
にんまりと笑う笑顔に、漸く溜息をついた北見が口を開いた。
「お帰りなさい。随分ごゆっくりでしたね・・・森先生。」
「おぅ、参ったぜ。車がポンコツでよぉ。」
豪快に笑う森にまた溜息をつく北見の横で、岩永はまだ何も言い出せないでいる。
それに気付いた北見がくすりと笑みを漏らして森の横をすり抜け、
「話は後で聞かせて下さい。」
すれ違いざま森の肩をぽんと叩いて嬉しそうに笑った。

「あ？あぁ。・・・・・・どうしたんだ？」
北見の後ろ姿を見送り、岩永に向き直った森が顔を覗き込む。
「ばぁか。泣いてんのかよ。」
「そんなっ、泣いてなんか・・・」
慌てて顔を逸らしたその肩にばさりと布が掛けられた。
「な、何ですか、これ？」
「やるよ、土産だ。結構重宝したんだぜ、これ一枚で。」
それは素朴な格子模様のショール。強烈な陽射しに晒された事を窺わせるやや褪せた色合い。微かに土埃の臭いが残る。どれだけ厳しい自然環境をくぐり抜けてきたものかが容易に想像できた。
「・・・・・・な・・・さい。」
ショールの端を握り締めたまま、言おうとした言葉が言葉にならなかった。
「ん？何だって？」
にやにや笑う森の顔が一層近寄ってくる。
つい目線を床に落とした岩永の頬が赤く染まった。
「し、心配したんですからっ、みんな。」
「悪かったよ。」
ふっと小さく笑った森はあっさり引いて、
「後で謝るよ・・・みんなにね。」
片手で岩永の髪をくしゃくしゃと掻き回す。
「先に院長に挨拶してくるわ。」
「ぁ・・・」
行こうとする森の背中に岩永の視線が縫い付けられた。
──違う。そうじゃなくて・・・。ちゃんと言いたいのに。
再び視線が落ちたその時、不意に森が振り向きつかつかと戻ってくる。
「な、何ですか？」
戸惑う岩永を悪戯っぽい目で覗き込んだ。
「ちゃんと言ってなかったよな。」
「えっ？！」
見透かされたような言葉に目を見開く岩永の首に掛かったショールをぐいと引き寄せ、行く時と同じように身体ごと抱き締めた。

「ただいま。」
──そら、言った通り。ちゃぁんと帰ってきただろ。自信に満ちた腕がそう語る。

その声に促されるように、目を閉じて素直に言葉が出てきた。
ちゃんと言いたかった一言。

「お帰りなさい。」