月も星も見えない夜だった。

物音さえ吸い込まれてしまいそうな暗闇が時間を支配する。
未だ日中の熱を残した空気とからんで総てを覆い隠す、日本のそれとは全く異質な、ただ漆黒の闇。

小さな水音に気付いて、森は宿舎と繋がった診療所裏の戸を開けた。
「・・・トイ・・・か？」
井戸の端に小柄な人影を認めて声をかけた。
確か、午後から用があるから町へ出掛けると言ってた。そのまま家に帰ったと思ったのに。
「何やってんだ？こんな夜遅くに。」
「あ・・・ごめん。何か邪魔した？」
「そんなことより、どうかしたのか？」
どこか様子がおかしい気がした。ケガでもしたのか？
近寄ると、少し後退り顔を背けた。
頭から水を被ったらしく、濡れた髪から雫が落ちてシャツに吸い込まれる。
「何だよ、喧嘩でもしたのか。珍しいな。」
びしょ濡れのシャツがくしゃくしゃになっていて、顔に痣のようなものがみられる。
「う・・・うん。まぁ・・・・」
曖昧な返事をするトイを、森は喧嘩がばれて気まずいのだろうと判断した。
（ガキらしい可愛いとこがあるじゃねぇか。）
トイの濡れた腕を掴んで引っ張った。
「来いよ。薬くらい付けてやる。」
「い、いいよっ。僕もう帰るから！」
慌てて森の手を振り解こうとする。
「よくねぇだろ、こんな時間に。大体、いくら何でもこのまま帰ったら風邪引くぞ。」
本気で逃げ出そうとするトイを小脇に抱え上げ、診療所の戸を開けた。

「こら！そんなに暴れんじゃねぇ。」
ソファに投げ出すようにトイの身体を降ろして、明かりの下で改めて顔を覗き込んだ森は一瞬ぎくりとして手が止まった。
トイは観念したのか、所在無さそうにではあるがおとなしく座っている。
濡れたシャツが張り付いて、嫌でも線の細さを浮き立たせる。
その少しはだけた襟元から覗く肌に幾つか散らばる赤い痕。それが子供の喧嘩でつくようなものではないことは一目で判った。
森は何も言わずに立ち上がり、棚の戸を開けた。タオルを２、３枚取り出すとトイに投げ渡した。
「ほら、ちゃんと拭けよ。」
消毒薬と脱脂綿を持って戻ってきた森が、トイの顎に手をやり顔の傷を確かめる。
トイは自分を覗き込む顔をじっと見つめ返した。
「訊かないの？ドクター。」
「訊いていいのか？」
トイは少し俯いたが、それは拒絶というより躊躇のように見てとれた。
「だったら教えてくれ。何があった？」
まだほんの少し躊躇いを残した表情が顔を上げ、森を見て笑った。
それは家族の死を語った時と同じあの、子供には似つかわしくない諦観した笑顔で。
──何でこんなガキがこんな笑い方しなくちゃなんねぇんだ。
森の愁いを気遣うような眼差しで、トイがまた笑う。
「ツイてなかっただけさ。だって随分前の話だし、出くわしたとしてもまさか覚えてるなんて思わなかった・・・・・・買った相手の顔なんかいちいち。」
森は薬を浸み込ませた綿で傷を拭いてやりながら、黙って聞いていた。
「僕ね、町で暮らしたことあるんだよ。」
ちょっと言葉を切って、家族を失ったすぐ後だと続けた。
「急に一人になって、どうしていいか分からなくてね。町に出れば何とかなるかと思って・・・・・・実際、何とかなったよ。けっこういるんだよね、僕みたいなのでも買いたがるヤツって。」

とりたてて目を引くほど端整な顔立ちというわけではない。それでも、大きくて輝きのある黒い瞳や他の子よりは少し色白の滑らかな肌は、そのテの趣味を持つ男達の好みそうな要素を充分に備えてるとは言えた。
バカなことを、と咎めるのは簡単な事だ。
だが未だに社会全体が貧しいこの国で、身寄りのない子供が生きていく手段など限られている事は、森にも分かっていた。
「怖いのも、ちょっと痛いのも、ガマンしてすぐ慣れたよ。乱暴なヤツもいたけど、優しくしてくれる人もいたし。だけど・・・・・・」
路地裏や公園の隅で一人眠る時に感じる安堵感は、自分を買った男達の傍で得ることはなかった。たとえそれが雨露の心配ない柔らかいベッドの中であっても。
「やっぱり嫌だったから・・・・・・だからここに帰ってきたんだ。」
年よりかなり幼く見える顔が、その時ひどく大人びた表情を見せた。
「一人で食べてくくらいできるようになったし、外国人の相手もいっぱいしたおかげで英語も覚えたしね。だからもうやってないよ、今は。」
きっぱりとそう言って、真っ直ぐな視線を返してくる。

──こればかりは、顔立ちは似ててもあいつにはない強かさかもな。
顔の傷を処置し終えた森は溜息をついて、言い辛そうに切り出した。
「他にケガは？・・・・・・身体の方も見せてみろ。」
「大丈夫。ヤられる前に蹴っ飛ばしてうまく逃げられたから。」
「よく言うぜ。こんな目にあっといて。」
「だってあいつしつこいんだ。僕もうあんなことはしてないって言ったのに、無理矢理さ。」
しばらく町に行けないや、とトイは舌をぺろりと出した。
「だから、『町は嫌い』・・・か？」
「まぁね。」
トイは肩を竦めた後、不意に少し不安気に森の表情を窺った。
「怒ってる？・・・ドクター。」
「あぁ、腑煮えくりかえってるよ。こんなガキに手ぇ出すくそったれどもにな。」
大きな手で髪をくしゃくしゃと掻き撫でられて、トイはちょっと照れくさそうに目を細めた。
「やっぱりそうだ・・・」
「何がだ？」
「・・・・・・ドクター、優しいね。」
「ばぁか。」
森はトイの肩を抱き寄せた。
「我慢しなくていいんだぞ。」
小さな手が森のシャツをそっと掴んだ。

　　ずっと・・・・・・誰かにそう言って欲しかった。
　　この人だったらもしかしてって──それは直感だったけど。
　　ほら、ちゃんと当たったよ。

トイは目を閉じて大きな胸に顔を押し付けた。
他人の腕の中で得ることはないと思っていた安らぎが、そこには確かに感じられて。

「ねぇ、僕誰かに似てるんでしょ？」
毛布にくるまったトイが、ベッドの端に腰掛けて見守る森に問いかけた。
「何でそう思うんだ？」
「だって僕を初めて見た時、笑ったよ。何だかとっても優しい顔だった。」
「それだけか？」
「うん。」頷いた後、違うの？と首を傾げて覗き込んだ。
よく見てるもんだ。その時の事を思い出して森は苦笑した。
「あぁ。ちょっと顔が似てるくらいには思ったけど。いつも笑ってる気の優しい奴で・・・・・・案外中身も似てるかもな。」
「ふ〜ん。ドクターその人の事好きなんだ。」
「えっ？」
時々ホント鋭いよな、こいつ。
「その人、ドクターの恋人？」
「もういいだろ。さっさと寝ろよ。」
「どーしてさ？いいじゃない、教えてよ。違うの？」
好奇心いっぱいで身を乗り出すトイに、溜息をついて答えた。
「違うよ・・・・・・残念ながら。」
「ホントに？」
食い下がるトイがまた森の顔を覗き込む。
森は大きく肩を竦めて、もう一度溜息をついてみせた。
「ふ〜ん。じゃあ、僕が代わりになったげようか。」
「ああ？！」
「僕じゃダメ？」
「ガキは間に合ってるよ。」
頭から毛布を被せて、こつんと小突いた。
「ガキじゃないってば！」
毛布をはね除けて言い募るトイを振り返りもせずに、森は「お休み。」と明かりを消して部屋を出ていった。

「・・・・・・ばか。」

小さな呟きだけが暗闇の中にとり残された。

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