僕の思い過ごしだろうか、この違和感は。
言葉で説明は出来ないのだけれど、何処か気にかかって。
でも、彼は何も話してはくれない。

岩永は内科病棟まで来て、まだ逡巡していた。
何て切り出せばいいんだろう。
彼が何か変な事を言った訳じゃない。元気がないといった様子でもない。周囲にも気にしている人はいない。
気になっているのは自分一人。それも気のせいだと言われれば、後は何も言えない。
それでも確かめなくては。そんな気がしてここまで来たのだが。

診察室にも処置室にも森の姿はなかった。
「森先生ですか？さっき休憩時間に入られたばかりですから、医局か休憩室じゃないですか。」
教えてくれたナースに礼を言って別れたが、岩永が向かったのはそのどちらでもなかった。
医局にいなかったのは分かっている。休憩室の可能性はあったけど。
もし･･････もし、彼が一人になりたいと思ったのなら。
確信はなかったが、岩永は屋上へ出る階段に足を向けた。

 

澄んだ青さが、空を一段と高く見せていた。

目の前には白い波が幾重にも重なって揺れる。
屋上の半分を占領したシーツなどの洗濯物が白さを誇るように風にたなびいていた。

その波を縫うようにして、岩永はフェンス際の人影に近づいた。
「よぉ、珍しいな。」
そっちから近寄ってくるなんて、と森が軽い皮肉交じりの笑みで迎える。
「・・・お邪魔でしたか？」
「んなこたぁねぇよ。」今度は苦笑い。
やっぱり何処か違う。そう思っても、言い出す言葉が見つけられない。意を決して来たつもりだったのに。
岩永はフェンスに背を預けて小さく溜息をついた。

「何か用じゃねぇのか？」
向こうから水を向けられて少し戸惑った。
「え、あの・・・・・・お疲れ様でした。」
「ん？あぁ。」
何の事を言ってるのかはすぐに解ったようだ。
「参ったよ、蒸し暑くってなぁ。ありゃあ身体にこたえるぜ。」
空を見上げて「もう年だからな」と苦笑する。
それだけじゃない・・・ような気がするのは、僕の気のせい？
「向こうで何かあったんですか？」
岩永は何気ない口調を装ったつもりだったが。
「何かって？」
聞き返す森の目の奥にほんの微かな影。
「その・・・・」
それがはっきり分かれば、こんなに悩んだりしない。
言葉が続かず、「おかしな奴だな。」と笑って受け流された。

「もういいです。」やっぱり話してはもらえないらしい。
視線を逸らしてフェンスから離れた。
シーツの間を擦り抜けて行こうとした瞬間、不意に背中から抱き竦められ、引き戻された。
「ちょっ・・・何するんですかっ？！」
「そんなに気になるか、俺のこと？」
「もういいって言・・・・・・や・・・あっ・・・」
耳元で囁きざま舌を這わされて、思わず声が撥ねた。
あっという間に体中が熱くなり、耳まで真っ赤に染まる。
「止めて下さ・・・・・・やだ・・・っ」
振り解こうと藻掻く岩永を弄ぶように、森の手が白衣の裾から中に滑り込んだ。
「ふ・ふざけないで下さいっ、こんな所でっ！」
「ふ〜ん。じゃあ何処ならいいんだ？」
長い指で脇に沿って撫で上げられる。背筋をぞくりと駆け上がる感覚に思わず息を呑んだ。
「久し振りに、今夜付き合うか？そしたら教えてやってもいいぜ。」
「そんな・・・や・・・・・・ッ！」
岩永の抵抗などお構いなしに、指が肌を這い回る。
「やめっ・・・分かったから・・・・・・離してっ！！」
叫んだ瞬間、突然手が離された。
「うわっ」勢い余った岩永はつんのめるようにシーツに縋りついた。
振り向くと、森はにやにや笑いながら空いた両手をひらひらと遊ばせている。
「約束だぜ。」
森の声にぷいと顔を背け、岩永はシーツの波の向こうに姿を消した。

ばたばたとシーツが絶え間なく風にはためく。
その音に交じって階段を駆け降りる足音が微かに聞こえた。

「ちぃとふざけすぎたかな。」
岩永が自分を心配してるのは分かっていた。
自覚してなかったが、他人に気付かれるほど顔に出てたのか。
やれやれ。これじゃあ、いつもと立場逆じゃねぇか。

あいつの顔を見てると思い出す。
あいつによく似た──今はもういない──小さな友人。
何故だろうな。
理不尽な死など嫌と言うほど見てきた。
慣れようとは思わないが、これでも滅多な事じゃ動じなくなったつもりだった。
なのに、目の前で逝ったわけでもない一人の少年の死がいつまでも頭から離れないのはどうしてなのか。
忘れたいわけじゃない。ただ、薄皮一枚が纏わりついたようなもどかしい感覚を払拭出来ない自分が気に入らなくて。
森はここ数日幾度となく繰り返した疑問の堂々巡りにまた陥ってることに気付いて、溜息交じりに頭を掻いた。

 

定時をかなり遅れて帰宅しようとする森が通用口を出て、職員専用駐車場に向かった。
残っている車はもう少ない。殆どは夜勤の医師やナースのもの。
だからそこに残っている筈のない車を見つけて、おやっと思ったのだが。
車から降りてきた人物を見て、吹き出し、ついには堪えきれず笑い出してしまった。
律義なヤツ。もうとっくに帰っちまったと思ってたのに。
「なっ、何が可笑しいんですか？！」
岩永は恥ずかしいやら腹が立つやらで、真っ赤になって怒鳴った。
帰ってしまおうかと散々迷いながら、ずっと待ってたのがバカみたいだ。
「失礼します！」
「まぁ、待てよ。悪かった。」
まだ収まらない笑いを懸命に堪えながら、逃げる腕を引き留めた。
「うちで飲もうぜ。話してやるよ。」

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